読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

平田オリザ「わかりあえないことから」 感想

平田オリザさん。お名前は知っていますが、氏の演劇は見たことはありません。最近はももクロの映画「幕が上がる」の原作者としても世間に名前が出ていましたが、映画も見ていません。
コミュニケーションについて書かれた本書ですが、それだけではなく、演劇について、日本語について、教育について、文化について書かれた本でした。


コミュニケーションという欲求

いまの子どもたちは競争社会に生きていないから、コミュニケーションに対する欲求、あるいは必要性が低下しているのではないか。
私はこのことを「単語で喋る子どもたち」という言葉で説明してきた。
(中略)
そもそも子どもは、幼児期には単語でしか喋らない。それが成長するにつれて、他者と出会い、単語だけでは通じないという経験を繰り返し、「文」というものを手に入れていく。

例えば、昔の兄弟がたくさんいた時代なら「ケーキ」と言うだけでは無視されたのが、今は「ケーキ」と言えばケーキが出てくる。もっと優しいお母さんなら、「ケーキ」と言う前に子どもの気持ちを察してケーキを出してしまうかもしれない。
喋る必要がないなら、そりゃ喋らなくなりますよね。


現在のコミュニケーション教育にはディベートやスピーチなど、「伝える技術」を重要視していますが、現在の子どもにはそもそも「伝えたい」という気持ちがないのでは、と著者は書きます。

では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。


コミュニケーションは「慣れ」
今では「コミュ障」なんていう言葉も市民権を得て、自己弁護のように「私はコミュ障だから」と使われています。
そうはいっても現実社会の中ではコミュニケーションは必要とされます。学生が就活の際にこの現実にぶち当たります。これに対して著者は

ここ(就活)で求められているコミュニケーション能力は、せいぜい「慣れ」のレベルであって、これもまた、人格などの問題ではない。
(中略)
私は、自分のクラスの大学院生たちには、常に次のように言っている。
「世間で言うコミュニケーション能力の大半は、たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね、20歳過ぎたら、慣れも実力のうちなんだよ」

その通りですよね。あがり症の人だって、家族や親しい友達の前なら喋れる。人前が苦手な人だって、それを毎日繰り返していれば、否が応でも慣れていき、アガリのレベルは下がっていくでしょう。
であれば、教育でもある程度のことはできるのではないか。


「その、竿を、立てろ」
ある演劇の教科書には、強調したい部分に力を入れて発音をせよ、と書いてあるそうです。しかし著者は、これに反論します。

日本語(特に話し言葉)は語順が自由であり、強調したいものを語頭にに持ってきて、何度も繰り返して言うという特徴的な表現形式を持っている。

つまり、この例文だと、
「竿、竿、竿、竿、その竿立てて」
「立てて、立てて、立てて、その竿」
などとなるはずだと。
これは、日本の演劇が西洋近代演劇をそのまま輸入してしまったからだと分析します。

日本語で書かれる戯曲にとって、語順は決定的な意味を持つ。劇作家はこのことに十分意識的でなければならない。


対話と会話
著者は、「対話」と「会話」を区別します。

「対話」…あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
「会話」…価値観や生活習慣なども近しい者同士のおしゃべり。

例えば家族の会話だと、父の職業や息子の部活や娘のアルバイトなどは、それに関する会話であっても情報を掴むのが困難になります。会話をしている同士だと「既に知っている情報」なので、改めて言わないから。そこでわざわざそんな情報を入れた会話をするのはわざとらしくなってしまう。
なので、劇作家はこれでは見ている人に伝わらないので困ってしまうわけです。そこで第三者を登場させて、「第三者に対して」という形を採りながら観客に伝わるようにするのです。
なるほど。このことは鴻上尚史さんも「世間」と「社会」という言葉で繰り返し書いていますね。


しかし、日本は「分かりあう文化」「察しあう文化」だったため、この二つが分離していませんでした。それは、現代の「グローバル化したコミュニケーション」からは弱点になるかもしれませんが、これが様々な素晴らしい文化を生み出してきたという側面もあります。

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
という句を聞いただけで、多くの人々が夕暮れの斑鳩の里の風景を思い浮かべることができる。これは大変な能力だ。
(中略)
だがしかし、「説明する」ということは虚しいことでもある。
(この句)を説明しなければならないのだ。柿を食べていたら偶然鐘が鳴ったのか。鐘が鳴ったから、柿を食いたくなったのか。法隆寺は何の象徴か。こんな実も蓋もない説明を、しかし私たちは、他者に向かって繰り返していかなければならない。

それが世界でのコミュニケーションだと。 


また、「対話」と「対論」についても著者は論じます。相手との対話・対論によって何らかの結論が出ること。そこで自分の元の意見が変わることは恥ずかしいことではない。

いや、そこには、新しい発見や出会いの喜びさえある。その小さな喜びの体験を、少しずつ子どもたちに味わわせていく以外に、対話の基礎体力を見につける近道はない。


作られなかった「対話」の言葉
日本語には、尊敬語・謙譲語はたくさんあるが、「対話」の言葉、つまり対等な関係の褒め言葉があまり見当たりません。これは、これまで対話がおざなりにされてきた結果でもあります。

だが、ここに一つだけ、現代日本語にも、非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
「かわいい」
これはとにかく、何にでも使える。
よく中高年の男性が「今どきの子は、何でも『かわいい』でボキャブラリーがないなあ」と仰っているのを見かけるが、ボキャブラリーがないのは、そう言っている私も含めたオヤジたちの方なのだ。
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っていると言ってもいい。

なるほど!確かに!
また、女性から男性に指示する言葉も欠落しています。この辺、言われれば「なるほど、確かに」と思いますが、普段はそんなこと考えないです。さすが言葉の職業の人。


フィンランドメソッド

ヨーロッパの国語教育の主流は、インプット=感じ方は、人それぞれでいいというものだ。(文化や宗教が違うので)
(中略)
しかし、多文化共生社会では、そういったバラバラな個性を持った人間が、全員で社会を構成していかなければならない。だからアウトプットは、一定時間内に何らかのものを出しなさいというのが、フィンランドメソッドの根底にある思想だ。


ラストで著者は

分かりあう、察しあう古き良き日本社会が、中途半端に崩れていきつつある。私たち日本人も、国際化された社会の中で生きざるをえない。
(中略)
わかりあえないというところから歩き出そう。

と書きます。
諦めるのではなく、拒否するのでもない。これまでの日本社会とこれからの国際社会を見渡して、協調性から社交性へと転換していくべきなのだと。
そして、

進化の過程で私たちの祖先が、社会的役割を演じ分けるという能力を手に入れたのだとするならば、演じることには、必ず、何らかの快感が伴うはずだ。

と結びます。
否応なくやって来る国際社会では、これまでの日本人文化では通用しない。そこで、社交性を「演じる」ところからでいいので始めましょう。そこには楽しみや快感もあるはずだと。


面白かった。冒頭にも書きましたが、演劇について、日本語について、教育について、文化について書かれた本でした。
引用が多くなってこのエントリも長くなりましたが、もっと引用したい部分はたくさんありました。
頭のいい人が考えていることを分かりやすく伝えてもらえる。本って素晴らしいですね。