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やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

中嶋聡「『心の傷』は言ったもん勝ち」 感想

印税不払い運動を起こそう


「傷ついた」が絶対の武器になり、反論を許さない。「鬱です」と言ってしまえば認めざるをえない。そんな「葵の御紋」に対して私は疑問を抱いていたのでこの本を買ったのですが、そういう内容もありつつ、それ以上にとってもひどいひどい内容でした。
この人は精神科医です。こんなものの考え方でお医者さん、しかも精神科医をやっているなんて恐ろしい。
この本は2008年発行ですが、今でも同じ考え方なのかな。著者は1955年生まれ(現在60歳)だから今さら考え方は変わらないか。


第1章「朝青龍問題と『心の病』」、第2章「軽症ヒステリーの時代」はまだ読んでいて理解も納得もできましたが、その後がひどい。
第3章「セクハラは犯罪だろうか」。タイトルからして臭う、臭うぞ。

私が問題に感じるのは、以下の三点です。
第一の疑問:ハラスメント(嫌がらせ)がなぜ犯罪や犯罪まがいの扱いを受けなければいけないのか。
第二の疑問:なぜ「セク」なのか。
第三の疑問:相手が嫌だと感じたらそれがセクハラと言われるが、本当にそうか。

私には何が疑問なのか分かりません。当たり前でしょう。

(セクハラ、パワハラアルハラアカハラなど)これらはすべて、女性を原型(プロトタイプ)とする、か弱き、責任無能力の存在をほかの領域に拡張したものにすぎません。

女性がか弱き、責任無能力の存在であると著者はいうのです。もちろんこれは間違いですが、百歩譲ってそうであったとしても、じゃあだからこそ女性を守れよ。女性を無能力と決めつけておいて、セクハラしたら「その場で言わないなんて卑怯だ」って、どういう論法だ。

「相手を傷つけるからいけない」といいますが、軽い気持ちで言ったジョークでも、相手があとから「傷ついた」と申し出てしまえばセクハラになるのですから、結果として、はじめから何も言えないことになります。

当たり前だろ。それ以前に、この人はセクハラまがいのことでしか会話できないのかな。それ以外は何も言えないのかな。
著者は昔の日本式社会(会社)の良さを訴えるために会田雄次氏の文章を引用をします。以下、孫引きになりますが引用します。

会社で、タイピスト嬢がお茶を出す。これはあきらかに、かなり複雑な公私混同のからみ合いである。「進歩的女性」によって排斥されている方法である。だが、社員は、そこでお茶を楽しみ、女性を楽しみ、茶くみを職業としない人のサービスという素人性を、したがって私人性・家庭性を楽しんでいるのだ。
アメリカ式に洗面所で水を飲むのは、のどの渇きにはいちばんよいことは確かであるが、そこには何の潤いもない。タイピスト嬢でない、専門の茶くみ人がやったのでは、楽しさは半減するし、それが仕事でない人のサービスということが生む、ある温かみがある雰囲気が生まれてこないのである。

(太字は私がつけました)
ひどいでしょう。ツッコミどころ満載でしょう。そして、著者はこれを「その通りだ!」と思っているからこそわざわざ引用しているのです。筆力が足りずに誤解を生む書き方をしたわけではないのです。この文意のことを訴えたくてわざわざ引用してるのです。
まず、ここには女性の視点や感情が一切ありません。女性もこの当時同じように思っていたのでしょうか。
また、「楽しむ」「職業としない人のサービス」「素人性」「私人性・家庭性」という言葉の数々。明らかに仕事ではなく、そして男性性からの目線です。簡単に言えば「素人の家政婦(性的な目線も含む)」を求めているんでしょ。早く世間から退場しろよ。


第5章「被害者帝国主義」も、「傷ついた」と言ってしまえば誰も反論できない、という論旨は分かるのですが、あちこちがひどすぎて擁護できません。

女性専用車両」というのは、男性に対して大変失礼なものであり、男性を侮辱するものです。

まず痴漢ゼロにしてから言えよ。
続いて、ある判例を出します。

飲食店の女性客を「デブ」とけなしたとして侮辱罪に問われた市議がいました。判決によると、この市議は、客として居合わせた初対面の二十代の女性に「おいデブデブ」「そんなに太ってどうするんだ」「ドラム缶みてえだな」などと言って侮辱し、女性の夫に注意されると「デブをデブと言って何が悪い」と開き直ったとのことです。

最低ですね、この市議。市議でなくても大人として失格。しかし著者はこの判決に対して、

「デブ」と言ったくらいで刑務所に29日も収監されるというのは、ちょっとはめを外したようなことは何も言えなくなります。飲食店の酔客であればなおのことです。
「バカ」とか「アホ」くらいのことだったら、誰でも言っています。これも、相手の取りようによっては侮辱したということになるのだったら、本当に「物言へば唇寒し」としか言いようがありません。

というのです。本気?本気で言ってるの?
「ちょっとはめを外したようなこと」だって!初対面の客に向かって何度も侮辱的な言葉を言い、注意されてもその非を認めず開き直る態度のどこが「ちょっとはめを外したようなこと」だと?
また、「バカ」「アホ」は誰でも言いますとありますが、初対面の人には言わないでしょ。それは侮辱したとしか受け取れないでしょ!それこそバカか!


第6章「『辺縁』を生かす」は、白黒二元論ではなくグレーゾーンも認めましょうという論旨ですが、これもひどすぎてその本旨を支持できません。
いきなりナースキャップ廃止の話。そして著者の性癖の開陳。

しかし、私には少なくとも、何かさびしくて仕方ないのです。看護婦さんといえばナースキャップ、というように、私にとってナースキャップは、看護婦のイメージと切っても切れないものでした。

イメクラ行けよ。
そして「看護婦」が「看護師」に変わったことについて。

「看護婦さん」「スチュワーデスさん」「保母さん」と呼ぶときには、何か言ってみたあと、じわっと心に残るような余韻があります。

こいつキモいな。
さらにまたナースキャップの話。好き過ぎるだろ。

ナースキャップがなくなっても、看護婦が看護師になっても、彼女らの仕事がさほど変わったわけではありません。それでも、彼女らのイメージは、多少変わったような気がします。

変わったのはお前の性的なイメージだろ。


どうですか、この人。お医者さんなんですよ。しかも精神科医。
「同じことをしても人によってセクハラかどうか決まる」なんて当たり前でしょ。快・不快の感じ方なんて人によって違うんだから。男だって美人とそうでない人に同じことをやられて感じ方が違います。女性はその差が男性では考えられないくらい違うのです。キモい男に触られるのはゴキブリが触るのとほぼ同じなのです。
また、女性は力が弱いので、男性に何かされたときに拒否がしにくいです。貧弱な男が屈強な男にカツアゲされたときに「何でそこで嫌って言わなかったんだ」「拒否すればいいのに」と責めるのは意味がないというのは理解できると思います。じゃあ何でセクハラにはそう思わないのでしょう。
さらに社内の男女だったら力の差(暴力的恐怖)に加えてセクハラやパワハラも加わるのですから、ひとりの女性が全て振り払うのはとても困難だと、なぜ思えないのでしょうか?思えないからこんなこと書いているわけですが、なぜそういう想像や思いやりはできないのでしょうか。


私はこんな内容だと思わなかったので買ってしまいました。著者に印税が入ってしまいます。悔しい!
著者は1955年生まれ、今は60歳です。
週刊ポスト週刊現代は毎週ひどい前世代のセクハラ記事ばかりですが、雑誌が存続しているということは買っている人がいるということですよね。この本と同じような記事を読んでいるのですよね。この世代に売れているのか。
編集者もよくこの内容でOK出したな。同じ世代なのかな。


本当にこの世代は社会的としてダメな人が多い印象があります。今の中国レベルの価値観や倫理観。
道に唾吐くのもタバコポイ捨てするのも立ちションするのも公衆便所でしずくを飛び散らかすのもほとんどこの世代。
「昔は良かった」というのは、「昔は(セクハラもパワハラコンプライアンスも公衆道徳もなかったから)良かった」ということでしょ?今はそれがきちんと整備されてきたからそれに対応できないオヤジ世代は文句を言うわけでしょ。
早く退場してくれないかな。


久しぶりに読みながらわなわなと怒りながら本を読みました。自分の金で本を買うんだから、気持ちよくなるもの、ためになるものを買いたいのに、何でこんな駆逐されるべき価値観を読まなきゃいけないんだ。
このエントリは、この本をもう売れないようにするためのエントリです。売れませんように!


ちなみにこの著者の別の著書に「ブルマーはなぜ消えたのか」というものがあります。読んでいませんが、臭うタイトルですな。


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