やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「面白い」は文脈に宿る

感情を失った機械生物


最近気づいた。私は情報を求めている。
例えば友達と昔のことを語り合う。「昔こんなことがあったよなー」。私はそんな会話はしない。昔からの友達がいないというのが最大の理由だが、その出来事を知っている同士で「そうそう」と言っても何も面白くないからだ。新しい情報がない。そこには既に知った事実だけがある。
しかし、第三者にこの二人の間に起きた出来事を伝えるのは面白い。帰納法演繹法、どちらの方が伝わりやすいかななどということまで考えて話す。それはこの第三者にとっては新しい情報だからだ。新しい情報を、できるだけ面白く伝えたい。そのためには頑張る。
同じように「昨日あの番組見た?」「見たー。こうだったよねー」という会話もしない。事実を共有し合うだけでは何も面白くない。


しかし、人は感情で生きる生き物。
「面白かった」という感情を共有するのが楽しいのだ。そこが分からない。「面白い」という感情は昨日テレビ見たときに抱いただろ。翌日はその感想や感情を元に新しい面白い話をしようぜ。「面白かった」という感情の事実を提示されても「そうですか」しかない。
「あの収録の後、あの二人ぎすぎすしなかったかな」「ラジオで言っていたけど、飲みに行って和解したらしいよ」この会話が面白いかどうかは別として、こういう「そこから見て取れる情報」「前後の文脈」などから別の見方や情報を得て、それを面白がりたい。


しかし、人は感情で生きる生き物。
ポイントを貯める人が理解できない。利子のつかないポイントなんて貯める意味まったくない。それなのに「貯めたポイントでこれ買ったよ」と誇らしげに言う。何がすごいのだろう。何もすごくない。100ポイント貯めても100円。10,000ポイント貯めても10,000円。同じ。
「ポイントで買うと得した気になるよねー」。気になっているだけ。都度ポイント使えば、その分の現金は財布に残っている。一緒。
同じように500円玉貯金も分からない。財布から別に移しただけで、お金が増えているわけではない。
「経済は心理学」は真理。


分かっている。だから私は理屈っぽいし、だからモテないということを。
「面白い」とは感情だということも分かっているが、「面白い」という感情だけぶつけられてもこっちは面白くないのだ。「面白い情報」があって、そこで初めて「面白い」という感情が生まれる。


今の若者にとって夏フェスは花火や海水浴やBBQと同じ「夏のレジャー」で、夏フェスの内容自体よりも誰と行くかの方が大事。もうその時点で楽しいのだ。だからあとはその「楽しい」の感情を共有するだけ。演者のパフォーマンスはその感情を湧き起こす触媒に過ぎない。


若い子は「箸が転げてもおかしい年頃」なのでしょうがないですが、年齢に関係なく感情が出来事・経験・情報の「結果」ではなく、「目的」になっている気がする。「楽しい・盛り上がる」ために何か行動を起こす。特にSNSの普及により、楽しい(と世間ではされていること)を共有するために楽しんでいる感じがする。
もちろん私だって楽しむためにフェスに行くわけだけど、そこで素晴らしい会場の雰囲気やパフォーマンスを体験して、その結果楽しいと思うわけで。うーむ、この辺のニュアンス伝わるかな。


昔から、音楽を聴くときは歌詞カードを読み込むし、作詞作曲者はもちろん、編曲者や演奏する人もチェックしてきた。音楽雑誌のインタビューも読みたいし、洋楽のライナーノーツに書いてある影響を受けたミュージシャンや名盤を遡って購入してきた。そうやって「文脈」を踏まえて音楽を聴くようにしてきたので、他の分野でもそういう見方や捉え方をするのだろう。
面白いギャグも、なぜ面白いのかを考えてしまう。この関係性とこの話の流れでこのフレーズだから面白い、このフレーズでこういう映像が思い浮かぶ、など。フレーズそのものではなく、文脈を踏まえて面白がってきた。
「文脈でなくフレーズそのものに反応する」というのは最近の貧弱な歌詞文化に通じる話だと思うが、話がずれるので今回は触れない。


「面白い」は、その前後の文脈に宿っているのだ。
(今回、ですます調止めてである調で書いてみた)


感情の猿=人 (シリーズ生きる思想)

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