読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

柴那典「ヒットの崩壊」 感想(その3)

完結しなかった!


柴那典「ヒットの崩壊」の内容について私が考えていることを書くエントリ。
過去エントリ↓
ese.hatenablog.com
ese.hatenablog.com


3回目は「第五章:J-POPの可能性-輸入から輸出へ」について。
本書で「洋楽コンプレックスがなくなった」とあるのは、私もそう思う。以前は新しいミュージシャンが出てきても何となく「あのバンドが好きなんだろうな」というのが分かったが、今の新しいミュージシャンはルーツが見えない音が多い。それは単に昔と比べて過去のアーカイブを簡単に聴くことができて「音楽のルーツ」や「歴史の流れ」という感覚がないからなのか。どの音楽も並列に聴くことのできる時代
また、今の若いミュージシャンは90年代の音楽バブルの頃に子供~思春期だった世代が多いので、そこで多種多様なJ-POPを聴いてきたことで洋楽を聴く「必要」がなかったのでは。
そもそも「洋楽を聴く必要」というのは、日本の音楽より英米の音楽の方が優れているから聴かねばならない、という「憧れ」や「敗北感」が根本にあるように思う。それが、今の若いミュージシャンにはない。洋楽コンプレックスがないのだ。
それ自体はいいも悪いもない。洋楽を聴かねばならない!とは思わないし洋楽の方が優れている!とも思わないが、もちろん洋楽に素晴らしい音楽はたくさんあるので、聴いた方がいいに決まっている。


そしてこういう話題になると決まって「はっぴいえんど」の名前が出る。日本語でロックをすることの方法論において革命を起こした存在だ。
しかし、私ははっぴいえんどをリアルタイムで聴いた世代でもないし今でもきちんと聴いたことがないので、いまいちその論に乗れない。だって今聴いても「普通」だもの。もちろんこれははっぴいえんどが日本語でロックを歌っても普通になるように試行錯誤した結果だし、現在の「日本語ロック」は彼らの道筋の後にあるのだから、「普通」であるに決まっている。
でも、でも。それでも私は「日本語でロックを歌う」のイノベーターは桑田佳祐であり佐野元春だと思っている。それは具体的な方法論と商業的な成功の両面において。


「カバーブーム」について。

音楽業界がCD売り上げ不振にあえぐ中、好調なセールスを手堅く上げることのできるアイテムとして企画された

私もそう思っていた。そしてこのブームに対して「カバーするんじゃなくてカバーされる曲を作れよ」と批判的な印象を持っていた。
しかし著者は「それはあまりに一面的な見方だ」という。
それは、このカバーブームは「カラオケ人気曲の定番化」と並行して起こったことで、繰り返しカバーされることでカラオケでも歌われるようになり、カラオケで歌われるから「スタンダードナンバー」としての存在感を持つ曲がまたカバーされる流れだと。
なるほど。その見立ては素晴らしい。
そして、私の意見も変わりつつある。クラシックは同じ曲を違う指揮者・違うオーケストラが演奏することによりその違いや解釈を楽しむものだし、落語だって古典落語は話の筋は分かっていても落語家によって面白さは変わる。
なのに、J-POPだけカバーは許されないというのはおかしな話だ。とはいえ、新曲聴きたいけどね。


「新たな日本音楽の世界進出」という項ではBABYMETAL、きゃりーぱみゅぱみゅPerfumeの3組が挙げられている。完全同意。私も今世界で勝負できるのはこの3組しかないと思っている。
宇多田ヒカル久保田利伸もドリカムも聖子ちゃんも、無理だ。それはR&Bといった「向こうの土俵」で勝負しようとしているから。PC(ポリティカル・コレクトネス)や建前はともかく、人種差別は今も歴然とあるアメリカで日本人が「洋楽」のフィールドで勝てるわけがない。クリス・ハートやジェロを見る私たちと同じで「微笑ましい外国人枠」には入れてもらえても本流と同等で評価してもらえることなんてない。
その点、この3組は日本そのもの(そもそも日本語のまま)だからこそ外国で受けている。日本人が外国で勝てるのは「JAPAN」であり「TOKYO」なのだ


えー、業務連絡。
本当はこの3回目で最終章まで書こうと思ったのですが、いざ書いたら5,000字を超えてしまったので、ここで一旦切って2回に分けます。長いと読むの面倒ですものね、と読み手に媚びへつらう私。


ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)