やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

『谷川俊太郎 展』 感想

日本語は使えるけど使いこなせてない


東京オペラシティで開催されている『谷川俊太郎展』に行ってきました。
谷川俊太郎展|東京オペラシティアートギャラリー
谷川俊太郎さんはもちろん知っていますが、詩集を持っているほどのファンではありません。それくらいの薄いファン。
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会場内は、「撮影は可能だが、個別の撮影は不可」という条件つき。
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なので、こんな写真しかありません。みなさん、ぜひ会場に行ってじっくり見てください。


正直、展示内容としてはあまり多くなく、物足りないです。これで1,200円は高い。でもやっぱり、言葉は素晴らしい。
日本語なんて日本で暮らしている人ならみんな使えています。この文章だって日本語で書いているわけだし。そして、谷川俊太郎さんの詩には難解な言葉はほとんど出てきません。私も知っている言葉ばかりで紡がれています。
なのに。
なんでこんな素晴らしい表現ができるんだろう。私の知っている言葉で、私の知っている、でもまだ言葉になったことのない感情を言い当てる。何となく感じていたあの感情に言葉を与える。
言葉を与えるということは、命を与えるということ(「命名」ってそういうこと)。谷川俊太郎さんはこの世の様々なものに命を与えてきました。それは、そのものズバリを言い当てるのではなく、その周辺を語っていくことにより、そのものが浮かび上がってくるというか。ああ、私の言葉の不自由さよ!
「表現」って、そういうことだと思うのです。つまんないJ-POPで「そのまますぎて行間を読む隙間もねえわ」みたいな歌詞があります。もしくは「好き」とかを雑にそのまま言っちゃう歌詞もあります。
そうじゃないんだ。0か100か、白か黒かみたいな「好き」じゃなくて、「99.2くらいの好き」もあるし「ほの赤い好き」もあるでしょう。その微妙な感情を語るのが歌詞なのになー。


会場には谷川俊太郎さんの年表もあり、それを読むといろいろな人と交流があったことが分かります。多分詩人だったのでそんなに裕福ではなかったと思いますが、周りの人に助けられて活動ができたのかな。この辺は私の想像なので間違っていたらごめんなさい。
で、そういう「芸術のための清貧」とか「文化人による援助」って、今の時代でもあるのでしょうか。やはり世間的に右肩上がりの時代でないとそういう心の余裕も持てないような気がします。今はすぐに「それ、意味あるの?お金になるの?」「援助してメリットあるの?リターンあるの?」という時代だから。これも私の偏見に基づいた想像です。


私のこのブログもそうですが、なまじみんな日本語が使えるもんだから「自分は文章が書ける=文章を書くことはすごいことではない」と思いがちです。でも、それは大きな間違いです。素晴らしい文章、素晴らしい表現というのはとても難しいもので、しかもそれを平易な言葉で表現できるのはもっと難しいことです。平易だからまた簡単と勘違いされがちだけど。


日本語を使うようになって数十年経ちましたが、まだ全然使いこなせていません。


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