やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

映画『あゝ荒野』 感想

絞ろう


映画『あゝ荒野』を見ました。前後編合わせて5時間!さすがに長いよ!
この作品は寺山修司の同名小説が原作ですが、読んでいません。だいぶ改変があるようですが、どこが違っているのかは分かりません。


ものすごいパワーのある映画でした。園子温の『愛のむきだし』の感じ。監督と演者の圧倒的なパワーでひたすら見ていられる。
でも、やはり5時間は長い。編集でもっと短くできるはず。
つーか、そもそも自殺抑止研究会と経済的徴兵制度のエピソードいる?最低な環境でも生きている劇中の登場人物との対比なの?見ている最中はこの二つの話がどう絡んでくるんだろうと思っていましたが、結果何もない。健二の父親がその接点になっていましたが、そんなのこのエピソードと絡める必要ないし。


これだけ多くの人が出てくるのに、みんな関係がありすぎ。
新次が偶然出会った覗きのおっさんは新次のボクシングジムのオーナーだし、その妻(内縁かも)は新次を捨てた母親だし、新次の父親を自殺に追い込んだ相手は健二の父親だし、新次の彼女の母親は堀口の行きつけの飲み屋で働いているし、新次と健二と裕二は全員同じ階級だし。
さすがに世界と世間、狭すぎないですか?演劇出身の寺山修司だからなの?原作でもこう?新次と宮木(ジムオーナー)は偶然出会わなくていいし、新次の父親と健二の父親を関係づけなくていいし、芳子(新次の彼女)の母親は登場しなくてもいい。


あと、ラストのボクシングがもうボクシングじゃない。いくら何でもあんなにぶん回して殴り合ったりしないしあんなに一方的に殴られてレフェリーが止めないわけない。もちろんあの場面は健二の妄想モノローグ込みのシーンなので現実そのものではないとはいえ、ちょっと興ざめしちゃった。リアリティラインを逸脱している。
ついでに、新次と健二が同じ階級というのも、そうは見えない。しかも劇中新次は減量に苦労していたけど、健二はその描写一切なし。いや、どう見てもお前の方が重いだろ!この辺、どうにかならなかったのかしら。


役者は、皆さん素晴らしい。その中でもやはり菅田将暉が頭二つ抜きんでている。これだけ主演作が立て続けにあるのに、毎回全然違う顔を見せてくれる彼は本当に素晴らしい俳優だ。そんなに数見てないけど、どれも素晴らしい。


あしたのジョー』を例に出すまでもなく、不良(世間に馴染めない者たち)がボクシングと出会って成長していくという物語は、面白い。ベタであっても、このフォーマットは外さない。
今作は菅田将暉とヤン・イクチュンがこの役です。父親が自殺し母親には見捨てられてオレオレ詐欺をやっていた新次(菅田将暉)と、母親が亡くなって父親に無理やり日本に連れてこられその父親はアル中で暴力を振るわれる環境で育った吃音の健二(ヤン・イクチュン)。
どちらも底辺以下からのスタート。
そこに救いの手を差し伸べるのが堀口(ユースケ・サンタマリア)。ユースケらしい軽さと片目の元ボクサーというシリアスさが上手く融合して、とてもいい演技でした。


健二はゲイなのでしょうか?恵子(今野杏南)とのセックス直前で「あなたとはつながれない」と性交を拒否し(女性にものすごく失礼だ!)、新次と闘う(=つながる)ことを切望し、新次に殴られながらエクスタシーを感じているようにも見えました。
物語と関係ないけど、トップグラドルだった今野杏南はこの映画でヌードになったわけですが、脱ぎ損じゃない?これだったらセックス前のキスの時点で拒否できたわけで、脱がせる必然がない。しかし!ものすごくいいおっぱいだったから見れてよかった。でも、映画としては不要だった。同様に芳子の母親役を演じた河合青葉さんも脱がなくていいシーンでした。監督、こんなところまで園子温のマネをしなくていいんですよ。


もうひとり、芳子役の木下あかりさんも脱ぎまくっているのですが、これは必然がある。それも、「濡れ場」以上の脱ぎっぷり。カメラワークの工夫など関係ないおっぱい出しまくり。逆に股間が映らないような工夫が必要だったくらい。
セックスはつながり(人と、世間と)であり商売でありそして楽しいという、悲壮感も罪悪感も感じさせない軽やかな演技がいい。軽いというのは軽薄ではなく、そんな大ごと・大げさに考えていない感じ。しかし彼女は東日本大震災の被災者で母親を捨ててきたう過去も持っている。こちらは重い過去ですが、人間は多面的な生きものなので、もちろんこれは両立します。それを上手く演じていました。


気になる点はいくつもありますが、それでもトータルではめちゃめちゃ面白かったです。やはり作品に必要なのは技術よりも熱だ。そしてもちろん技術があればその熱はもっと広く伝わる。だからこそ余分なエピソードや余剰なシーンはカットするべき。適切な編集は熱を千切るのではなく熱を集約させるのだ。
「余剰なシーン」と感じたのは、台本で書かれている場面が終わってもカメラは回っていて、役者はその先をアドリブで演じているように思える場面がいくつもあったからです。実際のところは知らないけど。このせいでテンポや熱が薄まる。


ものすごく面白かったのに、だからこそいろいろ惜しいところが気になってそればかり書いちゃう。あゝ、自分。


あゝ、荒野 (角川文庫)

あゝ、荒野 (角川文庫)