やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

妄想映画『Dragon Ash物語』

公開は30年後


クイーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒット中です。ミュージシャンの映画には「ドキュメンタリー」と「伝記もの」があって、事実に即した内容であればドキュメンタリーがいいし、物語として描きたいのであれば伝記ものとして作った方がいい。
現在も活動しているミュージシャンの場合、フィクションの割合が増えるのはよろしくないのでドキュメンタリーが合っていますが、中心メンバーが亡くなってだいぶ経っている場合は伝記ものとして描きやすいです。クイーンはもちろん後者のパターンで、Xジャパンやハイスタは前者のパターンです。
で、クイーンの他に伝記ものとして描けるようなドラマチックなミュージシャンいないかなあと考えたとき、エアロスミスはどうかしら、と思いつきました。


では、日本のミュージシャンで作るとしたら?もちろんたくさんふさわしい人たちはいるでしょうが、私が語れるのはDragon Ashしかいない。
だって、真心ブラザーズだったら「YO-KINGはいつもハッピー」だし、RHYMESTERだったら「泥水すすり続けて30年」だし、岡村靖幸だったら「映画にするにはツラすぎる」だし。


というわけで、Dragon Ashの伝記映画を勝手に作ります。公開は30年後、Kjの古希に合わせて公開です。ちなみにこの頃、Dragon Ashは25枚目のアルバムを発表し、相変わらずライブハウスではモッシュが起きています。
タイトルは『Lily』か『Run to the Sun』で。


オープニング。ライブで『ROCK BAND』を演奏中。フロアではモッシュが飛び交う。タイトルが出て、過去シーンへ。


1990年代前半、古谷建志ラグビー部で汗を流し、放課後はバンド活動を楽しんでいた。
そして舞い込むデビューの話。しかしプロとして誘われたのは建志ひとりだけ。ドラマーだった桜井誠はお呼びではなかった。そこでサクはどうしたか。「めっちゃ頑張った」


こうして建志とサクがプロとしてデビューを目指す。しかしボーカル・ギターとドラムだけではバンドにならないので、ベースをオーディションで募集することに。
10代の二人とメンバーになるのだから同年代が望ましい。そのため20代前半までという年齢制限を設けて行ったオーディションだったが、そこに現れたのが馬場育三
どう見ても20代前半には見えないが、履歴書には23歳との記載が。そして肝心のベースプレイは文句なくテクニカルで、落とす理由はどこにもない。見事合格した馬場さんだったが、その直後二人より一回り以上年齢が上ということが発覚。
建志は親の七光りと見られないために「降谷建志」という名前で活動する。


1997年、ようやくデビューしたDragon Ashだったが、最初は鳴かず飛ばず。バンドブームはとうに終わっており、世の中は小室サウンドビーイング系、そしてカラオケの時代。英語詞でパンクロックを歌う彼らに時代は味方していなかった。
ミニアルバムを2枚、フルアルバムを1枚出したが売れ行きは芳しくない。次のリリースがコケたらもう契約解除という瀬戸際まで追い込まれたとき、建志は新しい武器を手にする。
ラップ、ヒップホップ。


1998年、シングル『陽はまたのぼりくりかえす』『Under Age's Song』発売。今となっては珍しくない「ラップ+バンドサウンド」だしラップのスキルも高くないが、当時は新しい音楽として若い世代に支持を受け始めた。
そして、当時からDJとしてライブではサポートして参加していたBOTSが正式メンバーとして加入。
風向きが変わり始めた。


1999年3月『Let yourself go,Let myself go』発売。さらに2か月足らずで『Grateful Days』と『I LOVE HIP HOP』のシングルを2枚同時発売。さらに同年7月にはアルバム『Viva La Revolution』発売。アルバムは200万枚近く売れ、テレビに出ないながらもDragon Ashの存在は若者を中心に完全に世間にも広まった。
革命、成る。


BGMに『Freedom of Expression』を流しながらこの頃の絶頂期をダイジェストで紹介。
※この曲には「ロックンロールは俺の青春、ヒップホップは俺のすべて」という歌詞(和訳)がある。


アルバムはヒット、プロデュースや客演でも引っ張りだこ。この世の春状態だったバンドに、突如トラブルが起きる。
2002年、以前共演したZeebraキングギドラ公開処刑』の中でKjをディス。さらにシングル『Life goes on』がパクリではないかという疑惑。
特に慕っていたZeebraからのディスはKjにとってショックで、バンドとしての活動は停止。
ビーフショック。


その後、ギタリストとダンサー二人をメンバーに入れ、7人体制でバンドは活動する。テクノ、アンビエント、ラテンなど様々な音楽性を渡り歩き、徐々にヒップホップ色は薄まっていく。
どこへ向かうべきなのか。


2010年、EP『SPIRIT OF PROGRESS E.P.』とアルバム『MIXTURE』発表。この中の『ROCK BAND』で「自分たちはロックバンドだ」「ミクスチャーロックが大好きだ」と宣言。過去の思い出シーンが流れ、オープニングのライブシーンにつながる。
バンドのアイデンティティの再確認。


しかし2012年、馬場育三急逝。再びバンドは停止を余儀なくされる。
両A面シングル『Run to the Sun/Walk with Dreams』発売。それでもバンドは歩き、走り、進む。


KenKenの本格参加によりアルバム『THE FACES』完成。『The Live』の「この音が止まるはずない いなくなったあなたのためにも」でエンディング。
エンドロールでは『The Show Must Go On』が流れる。


いかがでしょうか。もちろんこの後もいろいろドラマはあるのでどこをピークにするか、どこで終わるかは難しいですが、私の妄想ではこんな感じ。
スタート当初はなかなか上手くいかなかったバンドが、ヒップホップという武器を手にし大ブレイク。しかしその恩人だった人から思いがけないディス。停滞期と迷走期を経てミクスチャーロックバンドとして腹をくくって再び進み始める。その矢先にIKÜZÖNEの急逝。それも受け止め、受け入れ、バンドは進む。


ドキュメンタリーでなく伝記映画として描くにはやはりまだ生々しいので、制作されるとしても数十年後でしょうが、見たいなあ。


Viva La Revolution

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