やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

橘玲『上級国民/下級国民』 感想(その1)

結論。団塊の世代がいちばん悪い


橘玲さんといえば『言ってはいけない』が大ベストセラーで私も読んで衝撃を受けました。続編『もっと言ってはいけない』も読みましたが、こちらはまあまあ。どちらも『生まれた時点で既に人は違いがある』というDNA最強論で、この身も蓋もない言説は「じゃあ努力は無駄なのか(もちろん無駄ではないです)」という諦観でありつつ、「お前がダメなのは努力が足りないからだ」という体育会系・意識高い系の呪いを解く赦しでもありました。


そして本作。
タイトルである「上級国民/下級国民」という言葉は、当初は「専門家/非専門家」というニュアンスだったのが、最近になって一般人の怨嗟(ルサンチマン)のキーワードとして使われるようになりました。
「上流階級」「セレブ」「エリート」は「努力して実現する目標」「成り上がり・移動が可能」なのに対し、「上級/下級」は努力が及ばない自然法則のようなものだというのです。


それでは、本書からいくつか引用していきます。
①平成で起きたこと
バブル崩壊により大規模なリストラが断行され、正社員が減り非正規雇用が増えたというのが一般的な認識だと思います。しかし、事実(ファクト)はそうではありません。
1982年から2007年にかけての正社員比率は46%→46%と、変わっていません。いちばん低い時期で2002年の45%、いちばん高い時期の1997年で49%。ほとんど変わっていないのです。
女性は、1982年40%→1992年50%→2007年43%と、バブル期に一時増えただけであまり変わっていません。その代わり、無業者が減り非正規雇用が増えています。


それでは、「雇用破壊」はどこで起きているのでしょうか。それは、若者です。
正社員は1982年75%→2007年62%。非正規雇用は4%→15%、無業者は10%→16%。

だとしたら、結論はひとつしかありません。平成の労働市場では、若者(とりわけ男性)の雇用を破壊することで中高年(団塊の世代)の雇用が守られたのです。


②令和で起きること
上で書いたようなことがなぜ起きたのか、なぜ「団塊の世代の雇用を守るために若者の雇用が破壊されている」という報道・世論にならないのか。これも簡単です。団塊の世代がそのような話題を望んでいないから、報道されないのです。
オランダでは「パート」と「フルタイム」の違いは勤務時間のみで、それ以外の労働条件は同じです。同一労働同一賃金ですね。

こうしたことは日本のマスメディアではほとんど紹介されませんでした。それは日本の主流派が「正社員」であり、マスコミの記者の大半が「正社員」だからでしょう。オランダのようなリベラルな「働き方改革」をやれば、正規と非正規の「身分」の違いはなくなり、彼らの既得権はすべて否定されてしまうのです。


ここで、面白い事実を知りました。
フランスでは実質最低賃金が世界一なのに、経済があまりうまくいっていない。その原因は「高い給料を払うなら新人(若者)ではなく経験者(中高年)を雇う」から。
なるほどー。私は最低賃金の引き上げに賛成派ですが、その国・地域の実力以上の引き上げは「若者の」雇用にはマイナスになるのか。


日本の話に戻る。

マスコミも含め日本の企業や官庁、労働組合などを支配しているのは「日本人、男性、中高年、有名大学卒、正社員」という属性を持つ”おっさん”で、彼らが日本社会の正規メンバーです。そんな”おっさん”の生活(正社員共同体としての会社)を守るためには「外国人、女性、若者、非大卒、非正規」のようなマイノリティ(下級国民)の権利などどうなってもいいのです。

2003年頃、ある新聞で「中高年の雇用を過剰に保護していることが若年層の失業を招いたのではないか」という連載記事を載せたところ、団塊の世代から猛烈な抗議があり、この企画は封印されてしまいました。

もはや活字を読むのは、この世代(団塊の世代)しかいなくなりました。新聞にせよ、出版にせよ、活字メディアにとって団塊の世代を批判することが最大のタブーになっているのです。
日本がなぜこんな社会になったのか、よくわかるエピソードだと思います。

「最後に残った数少ない読者」を刺激したくないもんねー。


遅まきながら、最近徐々にではありますが「働き方改革」が進んできました。これは、団塊の世代が現役を引退したからようやく可能になったのです。

1970年代から半世紀のあいだ、団塊の世代は一貫して日本社会の中核を占めていました。
どのような政党が権力を握ろうとも、彼らの利益を侵すような「改革」ができるわけはありませんでした。

働き方改革は進みそうです。では、老後の年金問題はどうか。

平成が「団塊の世代の雇用(正社員の既得権)を守る」ための30年だったとするならば、令和の前半は「団塊の世代の年金を守る」ための20年になる以外にありません。

またお前らかよ!


未来の予測は難しいですが、人口動態についてはほぼ正確に未来を知ることができます。つまり、現代のような超高齢化社会が訪れることはずっと昔から分かっていたことです。だとしたら、なぜ現代はこのような状況なのか。

団塊の世代は政治家にとって最大の票田です。彼らの死活的な利害が「会社(日本的雇用)」から「年金」に移ったことで「働き方改革」は進められるようになったものの、年金と医療・介護保険の「社会保障改革」はますます困難になりました。

だったらどうするのかというと、その若手官僚によれば「ひたすら対処療法を繰り返す」のだそうです。年金が破綻しそうになったら保険料を引き上げる。医療・介護保険が膨張したら給付を減らす、それでも駄目なら消費税率を少しだけ上げる。そうやって20年耐え続け、2040年を過ぎれば高齢化率は徐々に下がっていく。
だったらなぜ「改革」などという危険なゲームをしなければならないのか。これが「霞が関の論理」だというのです。

とにかく団塊の世代がいいとこ取りして、その下の世代はそのしわ寄せを受けまくってきて、それは今後も続くということですね。


ここまで世代の話。団塊の世代が根こそぎ持っていったため、そして次の世代に何も残さなかったため、今の日本の現状があります。しかしその事実をマスコミは報じないため、この世代は「今どきの若者は」と言っているのです。


③「モテ/非モテ」の分断
動物の生きる理由は「子孫を残すこと」で、人間の場合、その戦略は男女で違います。男は「女がいたら片っ端からセックスする」で、女は子育てのために「長期的な支援を受けられる関係性を築くこと」です。

進化論的には、「愛の不条理」とは、男の「乱交」と女の「選り好み」の利害(性戦略)が対立する。

そうはいっても現代の男は手当たり次第セックスしているわけではなく、一夫一妻制が社会のルールとして定着しています。
しかし、「現実」はそうではないようです。
50歳時点でいちども結婚したことない男性は23.4%に対し、女性は14.1%です。男女の数がほぼ同じなのになぜ未婚率の差がこれほど大きいのか。それは「一部の男性が複数の女性と結婚しているから」です。

もちろん離婚には金銭的・精神的に大きなコストがかかります。弁護士を雇うなどしてこうしたトラブルを穏便に解決できるのは、それなりに社会的・経済的地位のある男性でしょう。そしてこの男性は「持てる者」であることによって「モテる」のです。

厳しい現実!しかし、この後、もっと厳し現実が突きつけられます。

現代日本において、男にとっての共同体は会社(仕事)であり、ビジネスで成功して大きな富を得ることで女性の注目を集めます。これは逆にいうならば、(非正規やフリーターなど)ビジネスで成功できない「持たざる者=下級国民」は会社共同体から排除され、さらには性愛(モテ)からも排除されてしまうということです。

二重の排除!

「モテ」の男性は女性と利害関係が対立しませんから「男女平等」の理念に共鳴し、家事・育児にも積極的に関わって「イクメン」と呼ばれます。それに対して「非モテ」は、自分たちが性愛から排除され、女性から抑圧されていると考えるので、女性の権利を拡大しようというフェミニズムと敵対します。

これがミソジニー(女嫌い)の構造です。


男性は女性に比べて幸福感が低い。それは、社会的にはマジョリティである男性のうち、「非モテ」の男性(それは経済的な弱者でもある場合が多い)の幸福感が低いのです。
そしてこの「社会的マジョリティなのに抱く不満」は日本だけでなく、世界的な構造であることがこの後語られます。人種問題のない日本ではそれは「男性/女性」ですが、アメリカでは「白人/黒人・ヒスパニック」という形で顕在しています。


本はまだ続きますが、長くなったのでここで一旦切ります。


上級国民/下級国民 (小学館新書)

上級国民/下級国民 (小学館新書)

  • 作者:橘 玲
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/08/01
  • メディア: 新書