やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

映画「空気人形」 感想

板尾は悪くない


昨日「誰も知らない」の感想を書いたのですが、そういえば以前「空気人形」を見たときにも感想を書いていたなと思い出し、自分のパソコンから引っ張り出してきました。
下記の文章は2011年8月に書いたものです。今になって思い返すといい映画だったと思うのですが、見た直後に書いたこの文章は何だかけなしていますね。感想や印象や思い出は変わるもんですね。


以前より気になっていた「空気人形」をようやく見ました。
原作は業田良家ですが、原作は未読。


心を持ってしまったラブドール(ダッチワイフ)の哀しさの物語で、確かに良い作品なのですが、ネットで見受けられるような「もろ手を挙げて大絶賛」とは思えませんでした。


まず、心を持ったラブドール「ノゾミ」が恋するレンタルビデオ屋の店員(ARATA)が、全く性欲ゼロ。少女漫画か。
これだけ可愛くて天然で自分に好意を持っている何も知らない女の子が近付いてきたらすぐ手を出すでしょ。デートしていたら手をつなぐでしょ。自分色に染めるでしょ。


次に、ノゾミの持ち主である中年男性(板尾創路)ですが、この人は何も悪くない。
一生懸命に愛情を注いでノゾミと暮らしてきたのに、ノゾミが心を持つとノゾミからは疎ましがられ、行方不明になったのでしょうがなく新しいラブドールを買うとノゾミから裏切り者扱い。
そりゃないよ。彼も実生活ではうまくいかず、それをラブドールに癒してもらっているのに。


レンタルビデオ屋の店長にやられるシーンもあまり好きではない。
「私は誰かの代用品」ということを表しているのでしょうが、「え?店長どうしちゃったの?」と思ってしまいました。店長の最初のイメージはそんなエロオヤジじゃない。単なる映画マニアな感じがしたのに。
もしこのシーンを入れるならば、店長をもっといやらしい人間に描いておくべきではないでしょうか。


映画のラストで、ノゾミがビデオ屋店員の体に傷をつけてしまうシーンですが、彼はなぜ動かなかったのでしょうか?彼女の望みを叶えてあげるためだったのでしょうか?
そうはいっても死ぬこたあない。すぐに「痛ぇ~!何すんだこの野郎!」と言うでしょう。


最近、今さらですがジブリ作品を見るようになって、荒唐無稽な設定やツッコミどころ満載のキャラやセリフでもマンガだと許せてしまうなあ、と思うことが多々あります。
今作はそれとは逆で、マンガ原作を実写にしたからいろいろ気になっちゃう場面が増えてしまったような。
(こんな日常会話もろくに出来ない女性がレンタルビデオ屋のバイト面接受かるかー、とか)


人間は誰もが不完全で、ひとりでは生命を完結できない。だからこそ、他者との関わりが生きる上では重要となってくる。
ラストでノゾミの腕から抜けた空気でタンポポの綿毛が飛んでいきますが、その飛んだ先々で新しい関係が生まれている描写があります。
レンタルビデオ屋では新しいバイトが入り、虚言症の老女は老人と知り合い、過食症の女性は捨てられているノゾミを見て「きれい」とつぶやく(外界に明るさを見い出す)。
誰もが誰かの代用品ではなく、誰かの役に立って社会は生きている。


そんないい映画なのですが、板尾の負け犬中年男性の目線で見てしまうため、上記のような感想も持ってしまうわけです。


どうでもいいですが、ノゾミがどーにも鳥居みゆきに見えてしょうがない。危なっかしい動きやしゃべり方が。


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