やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「街場の現代思想」 内田樹 感想

というこの文章を読んでくれているのは誰なのか


頭のいい人の文章は面白い。私が普段何となく思ってはいるけれど形にできない感情や感想を言葉にしてくれるから。
内田樹さんの本を読むと、いつもこの感想しか出てこない。なので、今回はちょっと違った切り口で。


今回は「文化資本」について、「負け犬(=未婚女性)」について、結婚・離婚、仕事・給与などの「街場の常識」について書かれています。
文化資本」について、内田先生は

「教養」とは、「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。

と書いています。「あることについて知っている」という「知識」ではなく、「それがどのような知識であるかを知っていること(または知らないこと)」が「教養」だと。なるほど。
そして現在はそのような教養(=文化資本)が流動性を失い、「文化資本の差」による「壁」ができていて、それは「年収」などと違い、成人してからの努力では越えられないものだと書いています。

(私たち一般人が)「文化資本を獲得するために努力する」という身振りそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまうのである。
ひどい話だ。
「努力したら負け」というのがこのゲームのルールなんだから。

でも、文化資本社会にもひとつだけ救いがある。
それは、この社会における「社会的弱者」は自分が「社会的弱者」であるのは主に「金がない」せいであって、「教養がない」せいでそうなっているということには気がつかないでいられるからである(教養がないから)。

「足るを知る」ではなく、「足らないことを知らない」幸せ。270円居酒屋でケータイ片手にエグザイルの話をして帰りはドンキで安物買いの銭失い。これで幸せを感じている人には私は何も言うことはありません。でも、私にはそれは幸せではないです。


次章では「教養がないことに気づいてしまった人はどうしたらいいのか」について質問があり、それに回答しています。

「一億総プチ文化資本家」こそが、一国の文化的成熟にとって実は最良最適の戦略であると私は信じております。

どういうことか。長くなるので中略・要約しながら引用すると、

「社会が文化資本を基準に階層化されるのなら、それを利用して社会的上昇を果たしたい」と考え、知識と教養へどっぷり浸かっているうちに、気がついたら出世なんかどうでもよくなってしまった…という逆説こそが文化資本主義ならではの味わいである。
文化資本へのアクセスは、「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」を懐疑させる。
私が「日本は文化資本の偏在によって階層化されるであろう」というようなアナウンスをするのは、このアナウンスに驚いて人々が文化資本の獲得に我先に雪崩打てば、結果的に階層社会の出現を先送りできると信じるからである。

私たちは幼い頃から文化資本に囲まれて育った文化貴族ではないし、今後努力してもそうはなれない。でも、教養を深めていくことが結果的に文化資本の壁による分断を防ぐことができるのだと。
身も蓋もない現実にがっくりしながら、でも希望の持てる結論じゃないですか?本を読み、映画を見て知見を広げることは良いことだ!


でも、こういう言論に触れる度にいつも思うことがあります。それは、分かっている同士が「そうだよね」と言っていても何も変わらない、ということです。
※今回の内田先生の言論は「気づいてしまった人がどうすべきか」という内容に対して結論が出ているので良いのです。
新聞の投書欄で常識のない若者を憂いても、その若者は新聞なんて読んでないでしょう。極端な例では「新聞を読んでいない人が増えている現状を憂う」ことを新聞で言論展開しても、全く意味がないと思うのですが。その言説を読んでいるのは新聞を読んでいる人だけなのだから。
どなたか、良い解決方法をお持ちでしたら教えてください。


内田先生の著作についてのエントリはこちら。同じことしか書いてないけど。
「疲れすぎて眠れぬ夜のために」内田樹 感想 - やりやすいことから少しずつ
最近読んだ本 一言感想 - やりやすいことから少しずつ


街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)