やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「暇と退屈の倫理学」 國分功一郎 感想

哲学書です。かなりマイルドに噛み砕かれているとはいえ、哲学書です。ややこしいです。でも、猛烈に面白かった。普段使っていない頭の部分を使っているような感じがしました。


パスカルは言う。

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないかがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

著者はこう引用し、こう続けます。

おろかな人間は、それに満足して部屋でゆっくりしていることができない。だからわざわざ社交に出かけてストレスを溜め、賭けごとに興じてカネを失う。
(中略)
部屋で一人でいるとやることがなくてそわそわすること、それにガマンがならないということ、つまり退屈するということだ。

パスカルはまた、「ウサギ狩りに行く人にウサギを手渡すと、その人はイヤな顔をするに違いない」と意地悪な例を出します。
そう、ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないのです。
著者はこれをこう分析します。

ウサギ狩りにおいて<欲望の対象>はウサギである。(中略)しかし、実際にはその人はウサギが欲しいから狩りをするのではない。(中略)ウサギは、ウサギ狩りにおける<欲望の対象>ではあるけれども、その<欲望の原因>ではない。

こんな感じで本書は進んでいきます。このペースで引用しているといくら文字数があっても足りないので、ばっさりと要点だけ書きます。
(といいながら、こういう内容で要点だけ抜き出すことは不可能なのですが)


「暇」とは。

暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇の中にいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり、暇は客観的な条件に関わっている。

「退屈」とは。

何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。


浪費とは。

必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使いきれないものが浪費の前提である。
(中略)
浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する

それに対し消費には限界がなく、消費は決して満足をもたらさないと著者は主張します。なぜか。

消費の対象が物ではないからである。
人は消費するときに物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。

雑誌やテレビで宣伝された店に行くこと。そこに行ってもまた次の店を宣伝されるので、延々と追い続けなければならない。これが消費である。


ここでまだ本全体の4分の1程度。この先も著者は数々の哲学者の言葉を引き合いに出し、それを認め、否定し、論を重ねていきます。
この先「退屈の第一形式(何かによって退屈させられること)」「退屈の第二形式(何かに際して退屈すること)」の話があり、さらに「退屈の第三形式(何となく退屈だ)」へと進みます。


これらについて細かく丁寧にひとつひとつ噛み砕きながら論は進み、いよいよ結論です。
一つ目の結論

こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない、というものである。

これは、「そのままでいい」ということではなく、ここまで読んできた読者は「既に何かをなしている」ということです。
二つ目の結論

贅沢を取り戻すことである。
贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。

しかし、このためには「その物を楽しむこと」が必要であり、楽しむためには訓練が必要だと著者は書きます。
三つめの結論

人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活から外れたときである。そして、動物が一つの環世界にひたっている高い能力を持ち、何らかの対象にとりさらわれていることがしばしばであるのなら、その状態は<動物になること>と称することができよう。

何を言っているのか、分からないと思います。「環世界」や「とりさらわれる」という言葉は本書の後半で出てくるのですが、まとめるのは難しいので、本書を読んでください。(逃げた!)
そしてこれは、第二の結論「人間として楽しむ」ことを前提としています。例えば、映画が好きな人は、映画について思考することになる。楽しむための訓練(外部からの強制でなくても)により、楽しむことを学びながらものを考えることができるようになるのです。

どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくか。
それに対し、<人間であること>を楽しみ、<動物になること>を待ち構えるという結論が導き出された。

私のこのエントリだけを読んだ人は、この結論を理解したでしょうか。納得したでしょうか。多分していないと思います。それは、私の文章力のなさももちろんですが、本書が全体を読んで初めて理解できるようになっているためです。一部分の引用や結論だけ抜き書きしても、ここに至る論理が分からないから伝わらないのです。
そう考えると、こんなエントリを書くこと自体が無意味なのでしょうか。おっと、何だか哲学書っぽい文体になってきたぞ。
確かにこのエントリ自体は何も明らかにしていないので無意味かもしれません。しかし、このエントリを読んで本書を読んでみようと思う人が一人でもいれば、それは無意味ではないでしょう。おっと、何だか哲学書っぽい文体になってきたぞ。


だいぶ分かりやすく噛み砕いた文章とはいえ、哲学書なのでやはりややこしい。全部で400ページ近いボリュームがあって、そして内容は哲学ですから。でも、とても楽しい本でした。何かが分かった「気になりました」。
どんな本だったの?と訊かれて簡潔に答えることはできないし、答えても相手に上手く伝えるのは難しい。でも、それでいいと思います。本を読むということは知識を得るということだけでなく、考え方を学ぶという側面もあるから。


こんなに読んでも、まだ私は消費の奴隷として退屈になるのだな…。


暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

増補改訂版も出ています。私が読んだのは最初の版なので、何が違っているのかは分かりません。