やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「年齢・タイミングに合った表現」というものがある

大人は分かってくれない


最近の歌は歌詞が稚拙だ、という批判があります。これは半分当たっていて、半分外れています。
当たっているのは、その通り稚拙だからです。
「表現」とは「そのものズバリを言わずそのものを表すこと」だと思っていて、例えば「リンゴ」という単語を一切使わずにリンゴの歌だと分からせるようなことです。恋の歌でも二人の距離感や関係性、主人公の相手に対する気持ちなどを、状況描写や客観目線だけで伝えるようなことです。
でも、今の歌は「そのまんま」。深読みをする余白もない。見たままを歌っているので、聴いている側が行間を読み取ることもできない。
「朝起きたらリンゴがあった リンゴを食べたらおいしかった」みたいな(ちょっとひどい例ですが)。リンゴが何のメタファーにもなっていない、ただの果物としてのリンゴ。
で、後は主人公の一人称目線で自分の気持ちを歌うだけだから、感情移入のしようがない。そうか、君がそう思うならそうなんだろうな、私は違うけど、と思ってしまいます。
マクドナルドのハンバーガーは子どもが食べても分かる美味しさ、というイメージ。


「抽象化」というのは、そのものの本質だけ残して、それ以外のそれぞれの事象を切り捨てることです。抽象化するから、その作者の個人的な思いが自分の思いとリンクして共感・感動するのです。その具体的な思いはそれぞれ違っていても、抽象化されているから共感できるのです。
なのに、今の歌は具体的すぎて、共感できません。
物事の具体的な描写も、主人公の具体的な思いも、具体的であればあるほど共感できる人は少なくなります。


でも、これは仕方ない面もあります。
昔は作詞家・作曲家・歌手は別々で、それぞれプロが手掛けていました。しかしビートルズ以降自作自演がメインになり、ミュージシャンの生き様や言動と曲をリンクさせて楽しむようになりました。
なので、作詞が得意じゃない人も作詞をするようになり、レベルの低い作品も増えていったのです。


当たっていない理由は、昔だってレベルの高い歌詞ばかりだったわけじゃないから、です。
今目につくのは、今だからであって、1年経って10年経って30年経てばレベルの低い歌は消えていきます。「昔は良かった」というのは、今も残っている歌を引き合いに出すからです。サザンだってシングルになった「ネオ・ブラボー」は闇に葬っているし。
なので、30年経てばいい曲しか残らないんだから気にしなくていいです。大人のいつもの「最近の若いもんは」です。


「最近の若いもんは」は紀元前のギリシャでも言われていたそうなので、いつの時代もおっさんは若者を理解しないものなのです。今までと違うから、自分では理解できないから、で「最近の若いもんは」と逃げる。
尾崎豊だって登場した当時は大人から叩かれました。しかし尾崎をリアルタイムで聴いてきた世代が大人になって、尾崎は批判しないけど別の新しい表現は批判する。同じことの繰り返しです。
私もその一人で、今尾崎を聴くと青い表現に恥ずかしくなってしまいますが、当時はステレオの前で歌詞カードを開いて聴いていました。
同じことを、SEKAI NO OWARIファンキー加藤でしている若者もいるはずなんです。やり方はパソコンの前でYouTubeと歌詞サイトを見ながらかもしれませんが。
私も今中学生だったら彼らにはまっていたかもしれません。出会う年齢・タイミングの違いだけ。


大人世代から見て稚拙な表現というのは確かにあります。しかし、その世代にばっちりはまる表現というのも確かに存在するのです。
なので、それは私たちおっさん世代がどうこう言う必要はないのです。
極端なことを言えば、子どもはアンパンマンや妖怪ウォッチの曲を好きになりますが、いつまでもそれだけ聴いているわけではなく、成長とともに違うものを「良い」と思うようになるのです。それを「妖怪ウォッチは程度が低い」と批判するのは間違っていますよね。それと同じ。


いろんな表現があってよい。それが淘汰されていいものだけが残っていくのだから。
SEKAI NO OWARI「ANTI-HERO」 - YouTube
これはいい曲だ。

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