やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

若林正恭「社会人大学人見知り学部卒業見込(完全版)」 感想

ぼくの本、きみの本


オードリー若林さんが雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載しているエッセイをまとめた本。単行本未収録分を大幅に追加して「完全版」という形で文庫化されました。
本の感想を書く際は面白かったところや要点の部分を引用してそれについて思ったことなどを書くことが多いのですが、この本ではそれはできない。それをすると際限なく引用しなければならなくなるから。
だってこれは私のことを書いた本だから。


若林さんが書くエッセイなので、自意識過剰や人間関係不得意や女の子苦手やコンプレックスなどがテーマになっていることが多く、これらを読むたびに頷きまくって首がもげそうになる。若林さん自身のことを書いているのに、それはそっくりそのまま私のことであり同じようなみんなのことなのだ。
痛い痛い痛い。
ただ単に「社会はクソだ」ということではなく、「社会と折り合いがつけられないのは自分に原因があるからだ」ということを突きつけられてしまうのだ。(本書では「社会はただそこにあるだけだった」と書いてある)
読書家である若林さんは、正確で分かりやすい表現でそのことを書いていく。暴いていく、という言い方もできる。その通り過ぎて読んでいるこちらは逃げ場がなくなってしまうのだ。でも、若林さんは「こちら側」にいて私と同じ立ち位置と目線でいてくれるおかげで何とか面白く読むことができる。これがリア充が書いた本だったら私はナイフでザクザク刺されて二度と立ち上がれなくなってしまうだろう。


しかし、連載が進むにつれて、状況は変わってくる。若林さんはテレビに出たてだった頃の「社会に対する違和感」と何とか折り合いをつけてちゃんとした大人の社会人になっていくのだ。
ちょっと待ってくれよ。置いてかないでくれよ。ずっと「こちら側」だと思っていたのに。
違うのだ。若林さんがリア充になったわけではない。こういうことは「慣れ」なのだ。私たちが億劫だと思って自分から挑まない「社会」に対して、望んでいたこととはいえ強制的にテレビの世界に放り込まれた若林さんはそこで闘わなければならなくなった。そうして経験し、学び、誤解を解き、慣れ、角が取れていったのだ。
それはセレブ化したわけでも「ザ・芸能人」になったわけでもなく、慣れていったのだ。「そこ(若林さんの場合は芸能界)で生きていく」とは「いろいろなことがある」ことを理解して生きていくということ。世の中は0か100ではないし、正しいの反対は間違いではないし、正義の反対は悪ではない。その間に無数のグラデーションがあり、私たちはその中で生きている。それが「社会で生きる」ということなのだ。


そして、もともとラストの一文できっちり落とす上質なエッセイだったこの連載は、途中から「文学」に変わっていく。若林さんの個人的な思いやエピソードが、2~3ページの「物語」になっていくのだ。若林さんにはぜひ長編の物語を書いてほしい。今書くのは又吉さんの二番煎じに見えてしまうので芸人としてはおいしくないが、どこかのタイミングで若林さんの「物語」を読みたい。