やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「ヒップホップ≠ラップ」は確かにそうなのだが

新しい船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう


私はKダブシャインのTwitterはフォローしていませんが、彼が「ヒップホップ警察」として日々啓蒙と指摘と注意と糾弾をしているのは他の人のRTから何となく知っています。
先日、こういう記事を読みました。
originalnews.nico
この中の彼の主張が私と全然合わなくて、Twitterでもいくつか呟いたのですが、まとめておこうと思い、ブログに書きます。

 日本人でラップをやる人に多いのが、ヒップホップを真剣にやっても、自分たちはそこまでひどい境遇に生まれたわけでもないし、差別されているわけでもないから、そこまでは共感できない、ということがあり、自分たちは自分たちのやりやすい形のヒップホップを見つけたい、という言い方をする人が多いんですよ。
 それって自分たちのやりやすいヒップホップで、本当のヒップホップではないから、ヒップホップと呼ばなくてもいいんじゃないか? と俺は思うし、仮にネガティブな体験とかをしていなくても、そういう人たちがいるということが、外国だけではなく国内だって全員幸せなわけじゃないんだから、そこに共感してヒップホップをやる。

本当のヒップホップではない?ネガティブな境遇の人たちに共感するのがヒップホップ?

例えばボブ・ディランブルース・スプリングスティーンだって、億万長者だけど、やっぱり労働者の気持ちとか、下層で苦しんでいる人たちの気持ちに寄り添って曲を作るわけだから、「自分たちは自分たちのやりたいヒップホップをやる」ということで、そういうところから一切目を背けるんですよ。

そんな立場でないロックだっていくらでもありますが、そういうミュージシャン・そういう音楽もKダブは認めないのでしょうか。

 そして、僕は最近、ヒップホップと日本語ラップは別に分けて考えている。日本語ラップは別に誰がやろうと、じじいだろうがばばあだろうが赤ちゃんだろうが、ラップしていれば“日本語ラップ”だし。
 日本語ラップと言っているだけで、“日本語”と付いちゃう。日本人が日本語でラップをやるのは当たり前なのに、「日本語と付けるだけでそれはちょっと負けているな」と思うから、“ラップ”にすればいいと思うし。
 ヒップホップはヒップホップで、伝統にある程度沿ったものをヒップホップと呼ばないと、別ジャンルのものになっちゃうじゃないか、と思う。

私がKダブと話が合わない・噛み合わないのは、そもそもラップとヒップホップの定義が違っているからです。私は「ラップ=メロディ要素の少ない歌唱法」「ヒップホップ=ラップをメインに使った音楽ジャンル」だと思っています。ラップはヒップホップの中にある。対等・並列ではなく内包している部分。
これに対しKダブは「ヒップホップ=歴史伝統を踏まえた音楽」「ラップ=歴史伝統関係ない音楽」という定義なのかな?両者は対等・並列で、中身によって区分されている。


「ヒップホップとラップは別もの」という意見には同意なのですが、それは「野球とバットは別もの」くらいの感覚です。そりゃ別ものだよ、比較できるものじゃないもん、という感覚。上記Kダブの定義(私の推測だけど)でいうと、「日本プロ野球とアメリカ大リーグ」「木製バットと金属バット」ということになるのでしょうが、そういう定義時点の違いがあります。


ヒップホップの4大要素はラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティと言われていますが、では生バンドだったらヒップホップではないのか、ブレイクダンスやグラフィティがなければヒップホップではないのか。もう今の時代、そういうジャッジは意味をなさないですよね。成り立ちは確かにそうでしたが、それが拡大・成熟していくにつれ新しい要素がどんどん加わって、今のヒップホップになっていると思うのです。だって、そもそもサンプリングだって「既存のものを引用して新しい価値を与える」というものでしょ。自分で演奏できなきゃ他人のレコード使えばいいや、という自由さがヒップホップの自由さなわけで。そういう既存の価値観から離れて自由に音楽を生み出してきたから今でもヒップホップはフレッシュな音楽であるわけで。
ロックだって、南部のブルースと白人のカントリーが融合してエレキギターを主としたビートを強化した音楽だなあ、といちいち立ち返って聴いたり演奏したりしないでしょ。
もういい加減、ヒップポップを歴史や伝統の枠組み内のみで語るのはやめませんか?

だから(ダイノジ)大谷ちゃんとかは、そういうことを僕が言うことによって、窓口が狭く、敷居が高くなっていると言う。
「純粋に楽しめないよ」みたいなことを言うから、お前らで楽しまなくていいよ。

歴史を踏まえないと楽しんじゃいけない音楽って窮屈じゃないですか?

特に大学出身の、そんなに周りのやつらもひどい状況じゃなかったやつらも、そういうことをわりと言って。「学生の俺達でも、そんなにシリアスにならなくてもヒップホップ楽しんだっていいでしょ」ということなんだと思うんだけど、いつも間にかそっちの方がマジョリティになっちゃった感じはあるよね。

それってとてもいいことだと思うのですが、違いますかね。


Kダブの言っていることは間違っていないし正しいことだと思っていますが、狭義すぎると思います。なので、今後スンニ派シーア派のように「歴史伝統ヒップホップ」と「音楽ヒップホップ」に分かれればいいんじゃないですかね。半分投げやりな意見。
ヒップホップに関する議論が噛み合わないときは「私は歴史伝統ヒップホップ派で」と自分の立ち位置を説明すれば、少し議論はすっきりしそう。


Kダブはヒップホップの定義を厳密に設けてそれ以外は認めません。正確にいうとそれ以外の音楽を認めても、それはラップでありヒップホップではない、という認め方です。
そんな間口の狭い、敷居の高いやり方でいいのかな。検定試験を受けないと「ヒップホップやってます」「ヒップホップ好きです」と言えないのは健全な形でないと思うのですが。


Kダブは日本語ヒップホップのオリジネーターの一人なので尊敬はしていますが、もうお役御免でいいのでは。いつまでも金やんがすごかったとか青バットの杉下とか川上哲治がどうだとか、もうそういう時代ではないのです。今の私にKダブは『サンデーモーニング』の張本勲に見えてしまいます。


私はヒップホップがそういう歴史や伝統に縛られず、ロックと同じイチ音楽ジャンルになってほしいと思っています。もちろん歴史や伝統に対する理解やリスペクトはあった方がいいですが、「なきゃヒップホップと認めない」という態度ではありません。
ただ、ヒップホップはラッパーその人自身の魅力や背景が音楽の魅力に付随している音楽なので、他の音楽ジャンルと同列に語れない、という部分もあります。ストーリーテリングなリリックもありますが、基本的には自分を歌う音楽。そしてKダブが言う通り、これまでの歴史の積み重ねがあって今の形があるのも事実。なので、やっぱり難しい。


繰り返しますが、私はKダブの主張を否定しません。正しいと思っています。ただ、あまりに厳密に狭義にヒップホップを捉えると、広まるものも広まらなくなると思うのです。Kダブは「ならそれでいい」と言うのかもしれませんが。
ジブラとKダブのように、私もヒップホップ愛はあってベクトルは同じ方向に向いているけど、手段・方法が違う、ということだと思っています。


最後に、この件についてのツイートではありませんが、この件について私が思っていることに近いので貼ります。


<3/26追記>
この件についてずーっと考えていたのですが、もう「ラップとヒップホップは別もの」でいいや、という気がしてきました。近い将来「ヒップホップ=歴史や伝統を踏まえた『概念』」「ラップ=ラップを用いた音楽」になるのかも。ヒップホップは音楽の域を超えた概念になり、ラップは音楽ジャンルになる。そして伝統主義者から「そのラップは単なるラップでヒップホップじゃねえ」と言われる未来。もしくはロキノンジャパンあたりから「逆にヒップホップ」と言われる未来。
あーそーですか、って感じ。


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新日本人

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