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映画『すずめの戸締まり』感想

創造主(監督)の思いのまま


新海誠監督最新作『すずめの戸締まり』を見てきました。
suzume-tojimari-movie.jp
アニメをまったく見ない私にとって、数少ない例外である新海誠監督作品。大ファンというわけではなく、国民的作品だからとりあえず見なきゃという半ば義務感で見てきました。
過去作の感想はこちら。
ese.hatenablog.com
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ここに書いたように、そもそもそんな大好き監督というわけではありません。『君の名は。』はいまいち掴めず、『天気の子』はラストで監督の豪腕に寄り切られたという感想。
さて、本作は。


(以下、ネタバレあります)


やはり、私はこの監督と相性がよくない。


全体的に「物語のためにキャラが動いている(動かされている)」感じがするのです。物語の都合(というか監督の都合)でキャラが動いている。
私は「キャラが物語を動かす」べきだと思っています。キャラの行動で状況が変化して、物語が動いていく。あくまでキャラ→物語の順であってほしいのです。


もうひとつ、物語のベクトルについて。
私が映画を見るときは、「今このキャラは何を目的に動いているのか」という目線で見ています。トレーニングをしている→ライバルに勝つため、カギを探している→秘密の宝箱を開けるため、という目線です。
目的やヒントがあって、それに向かって行動している。そこに邪魔や助けがあることがエンタメになる。


この二つが、この作品(というか新海誠作品)に欠けているように思えたのです。
これらについての記事。
ese.hatenablog.com
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具体的に書こう。
●女子高生が治療の名目で若い男性を家に入れたとして、自分の部屋に入れる?リビングでしょ。
ここは草太をイスに代える必要があるからそうしたのでしょうが、そんなことしないでしょ。
●すずめと草太が自己紹介をした直後、いきなり下の名前で呼び合うなんてありえない。
●フェリーの外で寝るなんてありえない。危険だし寒いし。見回りも当然あるでしょ!
●イスだから腹も減らないしトイレも不要。都合いいな!
●イスになるまでほんの数分しか会話してない男に(イスだけど)キスするかな?
●ダイジンという名前、誰が付けたの?

ダイジンは神様だから、人の心や、(スナックで分かるように)見た目すらもコントロールできる。だからダイジンは街で出会う人々に、直接は喋らなくても、『ダイジンだよ!』って自分から名前を明かして回っていた。人々は無意識にそれを受け取り、この子の名前はダイジンだということになっていった。

fusetter.com
だそうです。都合良すぎない??
●すずめが出会う旅館の女子高生。出会って数分でタメ口でしゃべるほど仲良くなる?
●そのバイクにすずめが乗るとき、なぜかヘルメットがある。みかんを運んでいるだけのバイクになぜ予備のヘルメットがあるのだ。
●草太(イス)は、途中で「体に馴染んできた」そうで、めちゃめちゃ動けるようになります。イスなのに!要石の神的パワーがあるからできるのかな?後半では空も飛べる。自由すぎる。
●観覧車、電源が落ちてもゆっくり下まで下りるのね。止まったままだと下に下りられないからね。都合いいな!
●芹沢の行動、すべてが不自然。
何のために草太の部屋に来たのか、どうして東北まで乗せてくれるのか。こいつは何を考え、何を目的にこの行動をしているのは、まったく見えない。
あと、あんな車に乗ってあんなファッションをしている奴が、懐メロ好きってありえるかな??
●途中でサダイジンが出てくるけど、急にどうした。出てくる理由が分からない。
そして、サダイジンがいるということは、東の要石はないの?誰かが抜いたの?勝手に化け猫になって勝手に要石に戻るの?
●結局、ダイジンは何がしたいの?要石の役割が嫌だから草太にその役割を押しつけたんじゃないの?なのにラストで要石に戻る。どうして?
●物語の前半はダイジンを探しながら後ろ戸を閉じるというRPG的なロードムービーで、そこのベクトルは分かります。で、草太が要石になった後は、すずめの目的は「草太を助ける」になるわけですが、どうやったら助けられるか分からないので、見ている私たちは何に対して「頑張れ」と思えばいいのか分かりません。
●クライマックスで要石になったイスを抜こうとするすずめ。抜いたら災害が起きちゃうよ。「私が身代わりになる!」とすずめは言っていましたが、身代わりになる方法なんてあるの?あるかもしれませんが、すずめはそれを知らないでしょ?
で、結果ダイジンが要石に戻ってめでたしめでたし。都合いいな!
●ここは、見ている私たちは「草太を助けるためにイスを抜け!」と思えばいいのか、「抜いたら災害が起きるから抜くな!」と思えばいいのか、どっちなんでしょう。
●そもそも、草太がイケメンでなかったら、そしてすずめがイケメン好きでなかったら始まらなかった物語なのね。
→と最初は思ったのですが、草太のシルエットを見たとき、すずめは過去の記憶から草太のことをビビビときたんですね。ここは納得した。実際は草太ではなく未来の自分だったわけですが。
●草太の祖父と芹沢が笑う場面がありますが、ああいう演出、冷めます。だって、笑わないじゃん。


文句はこの辺で打ち止めにしよう。
『天気の子』は世界の破滅よりひとりの女の子を選ぶ物語で、その豪腕さに「参りました」と思ったのですが、本作は「男も助けたいし世界も守りたい」というワガママな要望で、それはダイジンが叶えてくれるという決着でした。そこにロジックはありません。


物語全般に、宮崎駿オマージュが溢れていましたね。空から落ちてくる少女、胸で光るカギ、戦う巨大猫、etc。これらについて批判はありませんが、何でこんなにあからさまに入れたんだろ。
ただ、自然に対する目線は宮崎駿と真逆な印象があります。宮崎駿は「自然は人間が操作することのできない圧倒的なもの」として描いています。そのため自然に刃向かうと罰が下る。
それに対し新海誠は自然は人間がコントロールできるものとして描きます。『君の名は。』の大災害も、『天気の子』の異常気象も、『すずめの戸締まり』の地震も。


文句をたくさん書きましたが、ラストで子供が泣くから私も泣いちゃった。ただ、「泣く」と「感動」はまったく別ものですから、泣いたからいい作品というわけではありません。『ショーシャンクの空に』は名作ですが、泣かないでしょ?
ただ、ほとんどの人は「泣く」と「感動」を混同してしまうので、ラストで泣いたからいい作品だったと思ってしまう人が多いと思います。上手い。というか、ずるいなー。(卑怯とまでは思わないけど)


これは文句ではありませんが、分からないこと。
すずめの父親、たまきさんの両親、草太の両親について一切描かれません。何でなの?すずめの親がいなくなっていきなりたまきさんが面倒見るの?その時点でたまきさんの両親もいないの?草太の祖父が閉じ師だとして、両親は違うの?
『天気の子』もそうでしたが、大人や親の不在を描くのにその理由を描かないのは、何か理由があるのでしょうか?


というわけで、私ははまりませんでした。面白くなかったということではないのですが、監督と相性が悪いのだと思います。