やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」が駄作になった理由

ビビってイモ引いた


前作があまりにも大傑作であり当時の社会情勢とも合致してしまったため、映画の高評価だけにとどまらず、現実社会でもジョーカーをヒーロー視して実際に事件を起こすという輩も現れた。これがフィクションの力であり、恐ろしさでもある。


当初「続編は作らない」と言っていたトッド・フィリップス監督は、なぜ続編を作ったのか。
監督は前作の行き過ぎた影響力を恐れ、ある種神格化されたジョーカーを自ら引きずりおろすために作ったのではないか。それは監督だけでなく、主演のホアキン・フェニックスも加担しているように思えた。前作のあの素晴らしい演技はどこへやら。アーサーの弱さも怖さも見えなかったよ。単なる中年男性。


その結果、面白くない。あえて、わざとつまらない作品を作ったのではないかと思えるほど。
ただ、ジョーカーを単なる弱い人に落とすことが目的だとしても、面白く作ることはできたはず。アーサーが必死に悪のカリスマを演じようとしてもそれが無残にはがれていく、という流れで作ることはできたはずだ。それが「僕はジョーカーじゃないんだ」なんて弱々しく分かりやすい告白で幕引きをさせるなんて、逃げであり怠慢だ。


前作はアーサーの「信頼できない語り手」により虚実の境をあえて曖昧に作ったこともあり、どこまでが本当にあった出来事でどこからがアーサーの妄想なのかは分かりにくくなっていた(特にラストの追いかけっこのシーンにより、作品全体の信頼性も揺らぐ)。
それが、直接的な続編でしかも法廷劇となることで、前作で実際何があったかということが明確にされていく。これにより、ジョーカーのカリスマ性は薄れていく。カリスマ性とは見えない部分を信者が勝手に補填していくこと高まっていくものだから。
あの惨劇は実際にあったことで、前作ラストでカリスマに持ち上げられたアーサーは結局逮捕され、精神病院にいる。これが事実。
そして、周囲の期待に応えられないアーサーはジョーカーであることから降りる。
作品としても物語としても、前作の輝きを自ら打ち消す幕引きとなった。
何とも残念。
まあ、こういう恨み言を言っている時点で私も前作のカリスマ性にやられているわけだけど。前作があまりに輝いていたからその輝きが失われると文句を言う。私も同じ穴の狢。


続いて、ミュージカル仕立ての是非とレディ・ガガの評価について。
ミュージカル、必要あったのかな。今回はアーサーの妄想の中のミュージカルシーンと現実の中でのシーンがあったが、そこの演出が面白くなかったんだよなー。
特に妄想の中であれば、もっと派手で突飛な舞台や演出を用意して映画を盛り上げてほしかった。
あと、ホアキンの歌があまり上手くない。ガガはプロの歌手なので問題ない(それでも、わざと下手に歌っていたらしい)が、ホアキンの歌唱力が釣り合わないので、盛り上がらない。


レディ・ガガは素晴らしかった。犯罪者に恋するヤバい奴というキャラクターに説得力があり、目力でその場を掌握する。本作で演技の輝きを失ったホアキンに代わり、ガガの出ている場面では本作の主役となっていた。
ガガが素晴らしかった分、ホアキンの演技と作品の演出・脚本の弱さがもったいないなーと思う結果となった。


予告編でジョーカーとハーレクインが踊りながら階段を下りてくる場面は本編ではカットされていたし、オープニングの色とりどりの傘の意味づけは不明だし、予告編にもあった雨に打たれるアーサーのショットは前後のつながりがないし、現場や監督も混乱していたのかなと思わせる要素はいくつもある。加えて、ホアキンが現場でセリフをどんどん変更していったという記事もあった。
こういうときは、そりゃ上手くいなかない。その結果が、これです。映画は難しい。
関係ないけど、この部分を書いていて「とんぼ」以降の長渕剛を思い出した。