いくらなんでも
映画『イニシェリン島の精霊』を見ました。
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島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。賢明な妹シボーンや風変わりな隣人ドミニクの力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。
(公式サイトより)
このあらすじと予告編を見て、何も知らなければ見に行かなかったでしょう。それでも見に行ったのは、マーティン・マクドナー監督作品だから。
とはいっても、私は彼の作品を『スリー・ビルボード』しか知りません。でも、この作品は大傑作だったので、本作も期待値高めで見に行きました。
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という高い期待値でしたが、さて。
よくこのテーマで映画撮ろうと思ったな。おじさん同士のケンカですよ。どーでもいいじゃん。大人げないな。
しかし、そんな個人的なミニマムな諍いは島の向こうで起こっている内戦というとても大きな出来事と重なります。発端は些細なことでも、片方が突っ張れば収まらない。収まる可能性があっても、ひとつ歯車が狂えばまたご破算。最終的にはどちらも引っ込みがつかなくなり、どちらかが死ぬまで争いは終わらない。
周りから見れば「そんなことで」と言われるようなことでも、当人にとっては譲れない一線だったりする。それは個人のケンカでも内戦でも同じ。
分かるんです、言わんとしていることは。それを映画的表現で伝えていることも。でも、「とはいえ、本当に自分の指を切り落とすなんて(しかも根元から)!」という部分でどうしても乗れない。やってしまうことも、麻酔なしで切断することも、その後の治療をしないことも、いくらなんでもやりすぎでは。実際にコルムは鬱などの病気を煩っていたのでしょうか。そうでなければ、「いくらなんでも」と思ってしまいます。
そこは映画的に誇張した表現であるとして書き進めよう。
ラスト、数日前から本土での砲弾の音が聞こえない海を眺めながら、完全に決裂し和解できない二人。それでも、ほんの少しだけ「含み」を感じさせるラストシーンでした。この余韻は素晴らしい。
何も考えずぼんやり毎日過ごす人、考えて「目覚める」人、狭い世界に嫌気がさし飛び出す人、小さな世界に翻弄される人。それぞれの生活と性格を説明セリフなしで伝えてくれる脚本は素晴らしい。もちろん役者の演技も。
指の部分はむむむと思いましたが、それ以外では「よくぞこんな小さな話・地味な話を、大きな出来事もなく地味なままで面白く撮れたな!」というのが感想です。エンタメ性は薄いですが、マーティン・マクドナー監督はやはり有能だなー。