やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

2019年2月ツイートまとめ(その2)
































































2019年2月ツイートまとめ(その1)


























































問題起こすと作品がおじゃんになるのが私にはどうしても分からない

私はマイノリティなのか


タイトルはずっと前から思っていることですが、昨日このニュースを読んでまた思ったので、書く。
www.hochi.co.jp
「私、『今日から俺は!!』大好きだからDVD出たら買おうっと。でも新井浩文が出ていたら買いたくないなあ。代役で撮り直しだって?じゃあ買う!」という人、いるのかな。


そもそも、なぜ問題を起こしたら作品は公開中止になったりドラマの再放送ができなくなったりCDの回収が行われたりするのですか?


「被害者が見たくないから」ですかね。
テレビ番組やCMは不可抗力で出会ってしまうので規制する理由は分かりますが、映画やDVDやCDは見たい・聴きたい人が自ら出向いてお金を払って楽しむものです。それまで規制しないとダメなのでしょうか?被害者は見ませんよ。


被害者の感情を万能カードにするのはよくない。どこまでその効力は通じるの?過去の作品をネットビデオから削除させるほどその効力を及ばせる必要はあるのでしょうか。
その効力はいつまで続くのでしょうか。数年後、放送や公開が再開されたとき、被害者の感情は癒えているのでしょうか。たぶん癒えていないと思います。そのことを思い出したらいつまでも辛いでしょうし、加害者のことは一生許せないでしょう。じゃあ、永遠に公開しない方がいいのでは。
公開する側(今まで封印してきた側)は「もういいよね?」で公開しているのでしょうか。被害者に確認取ったのでしょうか。取ってないですよね。封印も再開も一方的で恣意的な運用ですよね。この辺に何かしらのガイドラインはあるのでしょうか。


また、「被害者が見たくないから」だったら、そのニュースを扱うのもやめた方がいいですね。被害者が見るから。同じように交通事故で家族を亡くした人や虐待で苦しんだ人のためにこういうニュースも規制した方がいいですね。
でも、ワイドショーはやめない。傷をえぐる。作品そのものよりもずっと直接的に被害者に二次被害を与えています。どっちが被害者に悪影響を与えているでしょうか。


「被害者」というカードは、相手が逮捕されていなければ使えないのでしょうか。ネット上では日々ヘイトな発言を繰り返している人はいて、それにより被害を被っている人もいます。でもその人の作品は規制されない。それ以前にTwitterでも規制されない。どうしてなんだろ。


そして、理由が被害者だったら、大麻のような被害者がいない場合はどういう理由でおじゃんになっているのでしょうか。
どこまでも「何となく、世間がうるさいから、臭いものに蓋」という感覚なのではないかしら。思考停止。
皆さん、来日時に麻薬で逮捕されたポール・マッカートニーは大歓迎していますよね。どうして?


罪と罰。何かしら罪を犯したら、逮捕されて懲役刑などの罰を受ける。それが我々の住む法治国家のはずです。ビジネス上ではギャラの不払いやCM中止の違約などの罰則もあります。
それだけじゃダメ?作品まで道連れにする必要ありますか?


分からない。
「その人と作品は別」
「見たくない人は見ない、見たい人は見ることができる」

じゃダメですか?


「そこまでしないと世間は納得しない」という意見もあります。でも、そんな人は最初から映画も見ないしCDも買わない人たちです。関係ないじゃん。そもそも見ないんだから。見たい人・欲しい人の意見や権利はどこにいってしまうのでしょうか。


「その人と作品は別なので、このまま公開します・放送します・発売します」と発表したとき、その意見に賛同する人(わざわざ声を上げずに認める人も含む)よりも反対する人の方が多いのかな。
「反対の声を上げない人」は「賛成していない人」ではなく「反対ではないからわざわざ声を上げない人」だと思うので、いくつかの反対の声を世間のマジョリティだと思わないで欲しいなあ。


でも、これも私の思い込みかもしれない。私は「関係ない人は無視」でいいと思うのですが、「関係ないのに怒る人」は私が思っている以上に、無視できないほどにいるのかもしれない。


それでも、「関係ない人は無視」でいいと思うのです。そういう「関係ないのに怒る人」に忖度する必要なんてないと思うんだけどなー。
「それが世間だよ」で諦めたら、そこで試合終了です。無視して「その人と作品は別」を貫いていけば、実際は何の問題も起きないと思うのですが。だって関係ない人はそもそも買わないのだから、劇場に行かないのだから。


「その人と作品は別」を貫いていけば、それが当たり前になるかもしれない。私たちがやるべきは「面倒な世の中だな」と諦めて嘆くことではなく、「その人と作品は別なんだから、公開・発売・発表してくれよ」と声を上げ続けることだと思っています。
誰も得していない過剰対応がこのまま続くのはどう考えてもいいことだと思えないのです。


私は声を上げ続けます。その人と作品は別だ!


愛の渦

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葛城事件

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百円の恋

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二重生活

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犬猿 [Blu-ray]

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GO

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そこのみにて光輝く

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斉木楠雄のΨ難

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バクマン。

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青い春

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美しき酒呑みたち 九杯目 [DVD]

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寄生獣 完結編

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安心安定のエンタメの何が面白いの?

感情数珠つなぎ


「普通に」という言葉が肯定の意味に使われ始めたのはいつからだろう。「普通」ってプラスでもマイナスでもないだろ!と思っていましたが、いつの間にか私も使うことがあります。
「普通」はプラス。


ぐるなびなどの普及により、お店に行く前にその店の評判を調べる。失敗したくないから。このお店、美味しい?この作品、面白い?この商品、コスパいい?
失敗したくないから。


本日、このツイートを目にしました。


これを書いている現時点でRTもいいねも2万超え。リプライも賛同ばかり。
そうか。そうなのか。
シティーハンター』というある種定型のコンテンツだからそういう意見も理解しますが、エンタメ全般だと私は賛同しないなあ。


realsound.jp
以前、この記事を読んだときに感じた納得と違和感。

スマホを落としただけなのに』、『十二人の死にたい子どもたち』、ともに原作小説があって、タイトルもその小説のタイトルがそのままつけられただけなのだが、いずれもタイトルが作品の設定や内容を明確に表しているということ。(略)今後はそれらの成功例を意識して、実写日本映画において原作のあるなしに関わらず、感覚に訴えるタイトルではなく、より説明的かつインパクト重視のタイトルのつけられた作品が増えていきそうな予感がする。

確かに、最近のラノベは説明的なタイトルが増えていますね。それが拡大しているのか。
商売だから仕方ないかもしれませんが、下に合わせないでほしいなあ。迎合でなく啓蒙、へりくだりではなく教育であってほしい。


ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたのは「クイーンの楽曲がたくさん使われていてフレディのゲイの苦悩やエイズ問題もあってラストはライブエイドの完全再現ライブ」と、作品の内容がすべて明らかになっているからなのか?それを確認して「確かにその通りだった!満足!」なのか?
でも『カメラを止めるな!』はその真逆の理由でヒットしたしなー。うーむ。


「面白いかどうか」は調べてもいいし口コミやネットの評判を頼っていいと思いますが、内容まで知った上でそれを確認するような楽しみ方は、私には理解できません。
(同じように、ネタバレ平気な人も信じられない)


自分が想像している面白さをそのままなぞるような作品、面白い?自分のようなちっぽけな人間では考えつかないお話の方が面白くない?
私は自分の予想や想像を軽く裏切って思ってもみなかった地平に連れて行ってくれる作品の方が好きだけどなあ。
ese.hatenablog.com
ここで私が挙げた10作品は、どれも予想を裏切り期待を上回る作品でした。私はこんなすごいこと・面白いこと・怖いこと思いつかない。だからお金を出して見るのだし、だからお金を出してみる価値があるのです。


安心安定の先に何かある?自分の目線の先に何かある?凡人より天才の発想を見たくない?何も知らない子供扱いされるより背伸びして上見たくない?背伸びしているうちに理解できることもたくさんあるよ。


以上、とりとめのない私の思考ぐるぐる文章でした。


安心したがる人々

安心したがる人々

残念ながら、宇宙人は「事実上」いない

ロマンは別腹


宇宙人(地球外生命体)はいるのか。はるか昔からの人類のテーマ。「生まれ変わったら男と女、どっちがいい?」「何でも一つ願いが叶うとしたら?」と同じく、永遠の議題。


結論を申し上げます。
宇宙人はいません。


この広い宇宙に、地球人以外に知的生命体はいません。寂しいですが、これが現実です。
ただ、タイトルに「事実上」と付けたのは、少しばかりの条件があるからです。


私たちが認知できる、コンタクトの取れる範囲に、宇宙人はいません。


より正確にいうと、こう。どういうことか。説明します。
①時間の壁
宇宙が生まれて143億年、地球が生まれて46億年、人類が生まれて200万年、文明が生まれて5,000年、天体望遠鏡が生まれて400年。そして人類が初めて宇宙に行ったのが50年ちょっと前。
宇宙の歴史に比べてなんと短いことか。つまり、人類が生まれる前に、もしくはここまで科学技術を発達させる前に、宇宙人はいたかもしれない。そしてその宇宙人は既に絶滅しているかもしれない。
逆に、この先宇宙人が進化するかもしれませんが、今の私たちにそれは分からない。認知できない。
これが時間の壁。


②距離の壁
太陽系の恒星は太陽ですが、それ以外で地球からいちばん近い恒星はケンタウロス座で4.3光年。光の速さで進んでも4年かかる距離です。もちろん現在の人類は光の速さで進むロケットは持っていませんので、現在の科学力では数万年かかります。
もしかしたらこの広い宇宙のどこかに宇宙人がいたとしても、コンタクトの取りようがないのです。会えないのです。
その宇宙人は地球人より科学力が発達しているかもしれませんが、光の速度を超えることはできないので、やはりどうしたって物理的な距離は大きすぎる。
いるかもしれないが、遠すぎて無理。これが距離の壁です。


というわけで、宇宙は広すぎるし歴史は長大すぎるので、万が一宇宙人がいたとしても私たちと出会うことは絶対にありません。宇宙人は「事実上」いないのです。


しかし、別の可能性も考えてみよう。宇宙人とはグレイのような人間っぽいやつだけなのか?


③思い込みの壁
私たちが生きるには酸素が必要です。もちろんその濃度も大事。気温だって高すぎず低すぎずでなければならない。
だからといって、そんな環境の星が見つからない=宇宙人がいる可能性はないと短絡的に決めていいのでしょうか。
宇宙は広い。もしかしたら酸素以外で生きることができる生命体がいるかもしれない。人類ならとても住めない過酷な温度環境が適温の生命体がいるかもしれない。どんな可能性だって排除してはならない。
また、知的生命体がいたとして、彼らの意思の疎通が私たちのような通信の仕方ではない可能性だってあります。テレパシーのようなものかもしれないし、超音波かもしれない。
このような様々な可能性を考えると、宇宙人がいる可能性はぐっと広がります。しかし、それらも時間と距離の壁に阻まれてしまうのですが。


結論。宇宙人はいるかもしれないが、私たちがコンタクトを取れる範囲(時間も距離も)にはいない。つまり、事実上宇宙人は存在しない。


ただ、ロマンは捨てちゃダメだ。映画ではどんどん宇宙人は攻めてきて欲しいし知らない間に潜入していて欲しい。『ムー』は毎回宇宙人目撃情報を載せて欲しいし鳩山由紀夫は宇宙人であって欲しい。


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