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映画『スリー・ビルボード』 感想

怒り、正義、差別、変化、赦し


映画『スリー・ビルボード』を見てきました。公式サイト↓
www.foxmovies-jp.com
これもまたTwitterで皆さん絶賛していたので見に行った1本。Twitterやっていなかったらこの映画の存在自体知らなかったと思います。Twitter様様やで。
あと、私の地元の映画館は最近大作でなくても評判のいい作品は公開から少し遅れてでも上映してくれるようになってとても嬉しい。『勝手にふるえてろ』も『彼女がその名を知らない鳥たち』も『ゲット・アウト』もそのおかげで映画館で見ることが出来ました。次は『バーフバリ』(これは後編だから難しいかなー)と『犬猿』と『悪女』をお願いします!


そんな映画館のありがたみをいただいて見に行った本作ですが、何とお客は私ひとり!
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いくら9時からの上映とはいえ、日曜日にこんな客入りでいいのか。これは全裸絶叫上映ができるぜ!と思いましたが、そんなタイプの作品ではなく、じっくり味わいながら鑑賞しました。


物語は娘のレイプ殺人事件の捜査に進展がないことに業を煮やした母親が警察を挑発する広告を打つところからスタート。名指しで批判された警察署長は街中の人から慕われており、署長を尊敬する暴力警官(しかもレイシスト)は暴走する。
こんなイントロダクションなら、実は警察署長には裏の顔があり、事件の真相は…、というストーリーを想像しがちですが、この作品はそういう話ではありません。「その人の立場ではその人の正義や理由がある」「怒りを鎮めるのは怒りではなく赦し」というお話です。
私はもっと人種差別などのポリコレ関連の話かと思っていたのですが、もちろんそういう要素も含みつつ、もっと深いもっと重層的なテーマと語り口でした。時代とともに、映画も進んでいる。それをヒット作(=みんなに伝わるエンタメ性)として作れる監督の技量に拍手!
(以下、ネタバレあります)





当初、母親(ミルドレッド)の行動は「意志の強い母親・娘思いの母親」に見え、警察は無能で怠慢な組織に見えます。それが、実は警察はきちんと捜査しているが手掛かりがなく手詰まりの状況であり、ウィロビー署長は母親に直接面会に行き警察が至らないことを詫びつつ捜査状況を正直に伝えると、少し見方が変わってきます。
娘を亡くしたミルドレッドの辛さは分かるけど、そんなやり方では賛同者も協力者も増えないぞ、素直に応援できないぞ。


末期癌を患っていた署長は自殺し、家族とミルドレッドとディクソン(暴力警官)に遺言を手紙に遺します。この辺から見ている私たちの感情は揺らいでいきます。
ミルドレッドには事件の捜査が至らないことを詫び、捜査の進展につながればという思いから広告の継続費用も送っていました。署長は本当にいい人だったのです。
署長の死を知ったディクソンは自殺の原因があの広告にあると考え、広告代理店の男(レッド)をボコボコにします。ここ、警棒でガラスを割って階段を上り、レッドを2階の窓から投げ捨て、下りてなお殴りつけるところまでワンカット撮影!これ、手持ちカメラでずーっと追っていったのかな?リアルタイム感と緊張感のある素晴らしい撮影でした。
何者かに広告を燃やされたミルドレッドは犯人が警察の人間だと決めつけ(劇中でもディクソンかな?と思わせるミスリードがある)、火炎瓶で警察に放火。これはさすがにやりすぎだろ。
しかし無人と思っていた警察署にはディクソンがいて、ウィロビー署長の手紙を読んでいました。君は優秀な警官になれる。そのために必要なのは愛だと。間一髪逃げ出したディクソンですが、大やけどを負ってしまいます。


この辺、みんなずーっとずれているんですよね。警察はきちんと捜査しているけど、手掛かりがなく手詰まり状態。それは内情を知らない被害者の母親からすると怠慢に見える。
広告が署長の自殺の直接の原因ではないが、そう決めつけて広告代理店に殴り込みに行く警官。その決めつけ自体もずれていますし、広告代理店の男に暴力を振るうのもずれている。


見ている私たちは、映画が始まったときと比べてだいぶ視点も感情も揺らいでいきます。そして後半は「赦し」のパートです。
大やけどをしたディクソンが入院した病室ではディクソンが暴行したレッドが同室でした。顔全体を包帯で巻かれたディクソンに対し「大丈夫か、じき良くなる、オレンジジュース飲むか」と声をかけるレッド。署長の手紙とレッドの優しさに触れ、「暴力を働いて済まなかった」と謝罪するディクソン。相手がディクソンだと知って動揺するレッドですが、こみ上げる思いを抑え、オレンジジュースを注ぐのです。
ここ、レッドの怒りに任せて暴走せず、なおかつストローの飲み口を相手側に向ける優しさ。ここは号泣ポイントですよ!


ミルドレッドは警察署襲撃を小人症のジェームズにかばってもらったのでお礼に食事に付き合うのですが、あくまで借りを返すだけなので高級レストランなのにドレスアップもしないし会話も弾みません。
ここに元夫が偶然居合わせ、広告を燃やしたのは自分だと告白します。そのせいで怒りとともにジェームズに対し失礼な態度(差別的な発言もしていた気がするけど詳細覚えていない)を取るミルドレッドはジェームズから愛想をつかされてしまいます。ここは、表面上はフラれたという形ですが、実際はジェームズがミルドレッドの無礼を赦しているのです。
そしてワインの瓶を掴んで元夫の席に向かうミルドレッド。ここで見ている私たちはまたバイオレンスなシーンを予想するのですが、ミルドレッドは「私からのおごり」とワインをテーブルに置くのです。ここも、赦しですね。


退院したディクソンは、酒場で事件に関する重要な情報を耳にします。お客の一人が語る過去の武勇伝がミルドレッドの事件にそっくり。酔っぱらいの振りをして皮膚のDNAを採取するディクソン。ミルドレッドにも捜査の進展を伝えます。
ここ、物語の途中で「もしかしたら酒の勢いで口を滑らす奴がいるかも」という可能性が示されていて、まんまその通りのことが起きるのでちょっと出来過ぎだなーと思って見ていました。
しかし、そのDNAは別人のものでした。現実は映画のように上手くはいかない。これも映画だけど、リアルってそういうこと。この脚本の流れも上手いなー。
電話でそのことをミルドレッドに伝えるディクソン。正義のやり場がなくなってしまった彼は「でも奴が悪さをしていることは間違いない。住所は知っている」とアイダホ州に行くことを伝えると、ミルドレッドも「ちょうど明日そっちへ行く予定がある(もちろん嘘)」と答え、一緒に向かうことに。
道中の車内で「警察署に火炎瓶を投げたのは私」と告白するミルドレッドに対し「あんなことするのはあなたしかいない」と返すディクソン。そう、彼も分かっていたのです。分かって、赦したのです。
「これから奴を殺しに行く気分はどう?」「あまり気乗りしないな」「私も」「道々決めていこう」という会話でエンド。
映画の終わり方としてはとてもあっけない切り方ですが、二人の気持ちが「赦す」側に傾いていくことが伝わるとてもいいラストでした。


結局事件は解決しないしアイダホでそのレイプ犯に対してどのようなことをしたのかも語られません。いいんです。この映画はそういう作品じゃない。それぞれの立場にはそれぞれが抱えている事情があり、事態の解決には怒りでなく赦しが必要ということです。
ウィロビー署長は馬小屋で自殺しましたが、キリスト教で馬小屋といえばイエス・キリストが生まれた場所。だからもちろん意味があるはずですが、私は読み取れませんでした。誰か教えてください。


物語上、黒人への暴行や教会での性的虐待、また小人やメキシコ出身者への差別なども織り込まれますが、それが主題ではありません。近年ポリコレを意識して差別をテーマにして作品が増えていますが、この作品はもうひとつ先をいっている。差別をする/しないではなく、過ちをした人を赦せるかどうか。過ちを犯さないようにではなく、犯してしまった後でもやり直せるか。
人は映画や漫画のように簡単に変化はしません。しかし、徐々にではありますが、変化はするのです。自分の過ちを認めること、相手の過ちを赦すこと。それができて初めて他者と分かり合えるし共存できる。
深い作品でした。アカデミー賞脚本賞ノミネートも納得の出来。オススメです。


スリー・ビルボード

スリー・ビルボード