やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

2018年3月ツイートまとめ(その2)





































































2018年3月ツイートまとめ(その1)
























































現在の排外的な空気はSNSのせい

武士は食わねど高楊枝


最近、イギリスのEU離脱とかトランプ大統領のアメリカファーストとか、そして日本でもヘイトスピーチとか、何となく内向きで排外的な空気が世界中を覆っていると感じませんか。
私は、これはSNSのせいだと思っているのです。


インターネットの発達により、一般人が誰でも発言できるようになりました。ブログとか2ちゃんとか。さらに最近はTwitterFacebookなどで、より気軽に自分の考えを発信できるようになりました。
「気軽に発信できる」というのは、物理的に簡単という意味と精神的に簡単という意味の両方があります。Twitterは「つぶやき」ですから、その瞬間思いついたことを躊躇も配慮も推敲もなく、文字通りつぶやくことができるのです。しかしそのつぶやきは目の前の人ではなく全世界に向けてのつぶやきです。
そしてRTやシェアも気軽に手軽にできるので、軽い気持ちでつぶやいたことが軽い気持ちで拡散していくのです。その結果、有益な情報も嘘の情報も同じレベルで日々流れていきます。しかも有益・重要な情報よりも感情・悪意の情報の方が伝播力は強い。ここでいう「悪意」は、ヘイトスピーチほど強い悪意でなくても、ツッコミやからかいといったレベルまで含みます。


人は元来他者に対して差別的な感情を持つ生き物です。あいつより自分の方が優れている、あいつより自分の方が上にいる。そういう感情はプラスの方向に向けば向上心になりますが、マイナスの方向に向くと差別心になります。
そしてそういう感情を持つこと自体は仕方ないですが、それを公の場で表明するかというと話は別です。普通の大人であれば、他人に向かって差別的な発言をしないのが常識です。
しかしTwitterは気軽なつぶやきで、しかも匿名ですから、そういった発言も気軽につぶやけちゃう。単なる上司に対する愚痴やボヤキならいいですが、もっと悪意の強い意見もつぶやけちゃう。
それが「王様の耳はロバの耳」の愚痴吐き装置にとどまっていれば問題ないですが、気軽にRTできるこの仕組みだと、簡単に多くの他人に広まってしまいます。
そして、「こんなこと人前で言えないけど同じことを思っている人がこんなにいるのか」というのが自分の意見の正当化に力を与え、次からもそういう悪意のつぶやきをしやすくなります。だって賛同者が多くいるんだもの。
Twitterはフォロー・フォロワーという関係性なので、同じ趣味・意見の人が集まります。なのでよけい「自分の意見と同じ人が多くいる」と勘違いしやすいのです。


社会は建前ときれいごとで成り立っています。
これは悪い意味ではなく、誰もが子供と同じく「イヤイヤ」だけでは社会は回らないわけですから、本心では「面倒くせーな」と思っていても、大人だから「仕方ない」でやるのです。ご褒美があるから、ペナルティがあるからではなく、「大人だから」やらなきゃいけないこと、言わなきゃいけないことがたくさんあるのです。それが社会です。


同じように、「大人だから言わないこと」もたくさんあります。差別的な発言をしないとかも社会的な大人のふるまいです。
それが、SNSで崩れているのが現在です。


政治家は当選しなければただの人。だから大衆の望むことをやる。政治家は大衆の鏡なのです。
本当は大人としてのふるまいをしなければならないのですが、本音の方を優先しているのが現在。もちろんそこには自身の生活が苦しくなっているから他人を助ける余裕なんかないという「表向きの理由」があるのでしょうが、それですら「でもやっぱり困っている人には手を差し伸べようぜ」がこれまでの大人の態度だったはずです。
腹が減っては戦はできぬは確かにその通りですが、武士は食わねど高楊枝だって正しいのです。そして子供でなく大人としては、個人ではなく社会としては後者であるべき、というのがこれまでの社会だったはずです。


経済的に貧しくなったからではなく本音がアリになったから排外的な態度もアリになったのだ、というのが私の考えです。そしてそれは大人のふるまいとして正しくない、美しくない。面倒くさくても、正しいことをしましょう。


「ヒップホップ≠ラップ」は確かにそうなのだが

新しい船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう


私はKダブシャインのTwitterはフォローしていませんが、彼が「ヒップホップ警察」として日々啓蒙と指摘と注意と糾弾をしているのは他の人のRTから何となく知っています。
先日、こういう記事を読みました。
originalnews.nico
この中の彼の主張が私と全然合わなくて、Twitterでもいくつか呟いたのですが、まとめておこうと思い、ブログに書きます。

 日本人でラップをやる人に多いのが、ヒップホップを真剣にやっても、自分たちはそこまでひどい境遇に生まれたわけでもないし、差別されているわけでもないから、そこまでは共感できない、ということがあり、自分たちは自分たちのやりやすい形のヒップホップを見つけたい、という言い方をする人が多いんですよ。
 それって自分たちのやりやすいヒップホップで、本当のヒップホップではないから、ヒップホップと呼ばなくてもいいんじゃないか? と俺は思うし、仮にネガティブな体験とかをしていなくても、そういう人たちがいるということが、外国だけではなく国内だって全員幸せなわけじゃないんだから、そこに共感してヒップホップをやる。

本当のヒップホップではない?ネガティブな境遇の人たちに共感するのがヒップホップ?

例えばボブ・ディランブルース・スプリングスティーンだって、億万長者だけど、やっぱり労働者の気持ちとか、下層で苦しんでいる人たちの気持ちに寄り添って曲を作るわけだから、「自分たちは自分たちのやりたいヒップホップをやる」ということで、そういうところから一切目を背けるんですよ。

そんな立場でないロックだっていくらでもありますが、そういうミュージシャン・そういう音楽もKダブは認めないのでしょうか。

 そして、僕は最近、ヒップホップと日本語ラップは別に分けて考えている。日本語ラップは別に誰がやろうと、じじいだろうがばばあだろうが赤ちゃんだろうが、ラップしていれば“日本語ラップ”だし。
 日本語ラップと言っているだけで、“日本語”と付いちゃう。日本人が日本語でラップをやるのは当たり前なのに、「日本語と付けるだけでそれはちょっと負けているな」と思うから、“ラップ”にすればいいと思うし。
 ヒップホップはヒップホップで、伝統にある程度沿ったものをヒップホップと呼ばないと、別ジャンルのものになっちゃうじゃないか、と思う。

私がKダブと話が合わない・噛み合わないのは、そもそもラップとヒップホップの定義が違っているからです。私は「ラップ=メロディ要素の少ない歌唱法」「ヒップホップ=ラップをメインに使った音楽ジャンル」だと思っています。ラップはヒップホップの中にある。対等・並列ではなく内包している部分。
これに対しKダブは「ヒップホップ=歴史伝統を踏まえた音楽」「ラップ=歴史伝統関係ない音楽」という定義なのかな?両者は対等・並列で、中身によって区分されている。


「ヒップホップとラップは別もの」という意見には同意なのですが、それは「野球とバットは別もの」くらいの感覚です。そりゃ別ものだよ、比較できるものじゃないもん、という感覚。上記Kダブの定義(私の推測だけど)でいうと、「日本プロ野球とアメリカ大リーグ」「木製バットと金属バット」ということになるのでしょうが、そういう定義時点の違いがあります。


ヒップホップの4大要素はラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティと言われていますが、では生バンドだったらヒップホップではないのか、ブレイクダンスやグラフィティがなければヒップホップではないのか。もう今の時代、そういうジャッジは意味をなさないですよね。成り立ちは確かにそうでしたが、それが拡大・成熟していくにつれ新しい要素がどんどん加わって、今のヒップホップになっていると思うのです。だって、そもそもサンプリングだって「既存のものを引用して新しい価値を与える」というものでしょ。自分で演奏できなきゃ他人のレコード使えばいいや、という自由さがヒップホップの自由さなわけで。そういう既存の価値観から離れて自由に音楽を生み出してきたから今でもヒップホップはフレッシュな音楽であるわけで。
ロックだって、南部のブルースと白人のカントリーが融合してエレキギターを主としたビートを強化した音楽だなあ、といちいち立ち返って聴いたり演奏したりしないでしょ。
もういい加減、ヒップポップを歴史や伝統の枠組み内のみで語るのはやめませんか?

だから(ダイノジ)大谷ちゃんとかは、そういうことを僕が言うことによって、窓口が狭く、敷居が高くなっていると言う。
「純粋に楽しめないよ」みたいなことを言うから、お前らで楽しまなくていいよ。

歴史を踏まえないと楽しんじゃいけない音楽って窮屈じゃないですか?

特に大学出身の、そんなに周りのやつらもひどい状況じゃなかったやつらも、そういうことをわりと言って。「学生の俺達でも、そんなにシリアスにならなくてもヒップホップ楽しんだっていいでしょ」ということなんだと思うんだけど、いつも間にかそっちの方がマジョリティになっちゃった感じはあるよね。

それってとてもいいことだと思うのですが、違いますかね。


Kダブの言っていることは間違っていないし正しいことだと思っていますが、狭義すぎると思います。なので、今後スンニ派シーア派のように「歴史伝統ヒップホップ」と「音楽ヒップホップ」に分かれればいいんじゃないですかね。半分投げやりな意見。
ヒップホップに関する議論が噛み合わないときは「私は歴史伝統ヒップホップ派で」と自分の立ち位置を説明すれば、少し議論はすっきりしそう。


Kダブはヒップホップの定義を厳密に設けてそれ以外は認めません。正確にいうとそれ以外の音楽を認めても、それはラップでありヒップホップではない、という認め方です。
そんな間口の狭い、敷居の高いやり方でいいのかな。検定試験を受けないと「ヒップホップやってます」「ヒップホップ好きです」と言えないのは健全な形でないと思うのですが。


Kダブは日本語ヒップホップのオリジネーターの一人なので尊敬はしていますが、もうお役御免でいいのでは。いつまでも金やんがすごかったとか青バットの杉下とか川上哲治がどうだとか、もうそういう時代ではないのです。今の私にKダブは『サンデーモーニング』の張本勲に見えてしまいます。


私はヒップホップがそういう歴史や伝統に縛られず、ロックと同じイチ音楽ジャンルになってほしいと思っています。もちろん歴史や伝統に対する理解やリスペクトはあった方がいいですが、「なきゃヒップホップと認めない」という態度ではありません。
ただ、ヒップホップはラッパーその人自身の魅力や背景が音楽の魅力に付随している音楽なので、他の音楽ジャンルと同列に語れない、という部分もあります。ストーリーテリングなリリックもありますが、基本的には自分を歌う音楽。そしてKダブが言う通り、これまでの歴史の積み重ねがあって今の形があるのも事実。なので、やっぱり難しい。


繰り返しますが、私はKダブの主張を否定しません。正しいと思っています。ただ、あまりに厳密に狭義にヒップホップを捉えると、広まるものも広まらなくなると思うのです。Kダブは「ならそれでいい」と言うのかもしれませんが。
ジブラとKダブのように、私もヒップホップ愛はあってベクトルは同じ方向に向いているけど、手段・方法が違う、ということだと思っています。


最後に、この件についてのツイートではありませんが、この件について私が思っていることに近いので貼ります。


<3/26追記>
この件についてずーっと考えていたのですが、もう「ラップとヒップホップは別もの」でいいや、という気がしてきました。近い将来「ヒップホップ=歴史や伝統を踏まえた『概念』」「ラップ=ラップを用いた音楽」になるのかも。ヒップホップは音楽の域を超えた概念になり、ラップは音楽ジャンルになる。そして伝統主義者から「そのラップは単なるラップでヒップホップじゃねえ」と言われる未来。もしくはロキノンジャパンあたりから「逆にヒップホップ」と言われる未来。
あーそーですか、って感じ。


www.youtube.com

新日本人

新日本人

「話が通じない」は「コンテクストが違うから」。コミュニケーションの話。

話が通じないのか、話を伝えてないのか


Twitter上では「最近の若者は」「老害が」「うちの旦那は」「嫁が」「部下が」「上司が」というやり取りが毎日繰り広げられています。もちろんそれはTwitter上だけでなく、世界中のあらゆる場面で「あいつは分からない」「なぜ分からないんだ」「こっちが正しいのに」は起きていて、極論すればそれが戦争の原因ですらあります。
で、先日研修会に参加して、そこでコミュニケーションについて少し学びました。そこで感じたことをいくつか書きます。


「コミュニケーションが得意」というと「プレゼンが上手い」「初対面でも気軽に話しかけられる」「相手を理解できる、もしくは理解させる」ということだと思われますが(私もそう思っていた)、そもそもコミュニケーションとは「影響を与え合うこと(相互作用)」なので、上記についてそれが苦手でも、それすら相手と「私は初対面の人と話すのが苦手だ」というコミュニケーションを行っていることになるのです。
なので、「コミュニケーションが得意」というのはとても限定された意味でしかないのです。


また、円滑なコミュニケーションができるのは、前提として多くの「当たり前」が共有されているから円滑に進んでいるように見えるのです。それは文化的・社会的な常識であったり地域や会社や業界内部での常識であったり法律や決まり事といった規範であったり。
そして、それらの多くはマジョリティが「当たり前」を作っています。中国人や韓国人とは常識が違うからコミュニケーションできない?それは私たちと「当たり前」が違っているだけです。それを前提に、コミュニケーションとりましょう。


コミュニケーションの「相互作用」「相互理解」は、会話や表情やしぐさや言い方などあらゆるチャネルを用いて相手とやり取りを行います。そのとき、会話の言葉自体は大きな意味を持ちません。メラビアンの法則では話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であると言われています。言葉以外の要素の方が大きいのです。
ここで重要なのが「コンテクスト」です。日本語では文脈・状況・背景という意味です。同じ言葉でもコンテクストが違えば意味は変わってきます。
明日晴れるかな」だって、遠足に行きたい子供は「晴れてほしい」という意味で使うし、体育祭に出たくない子供は「晴れてほしくない」という意味で使います。コンテクストで意味が決まるのです。


コンテクスト度が高い(ハイコンテクスト)コミュニケーションは、言外に多くの意味を含んでおり、それは表現の絶妙な塩梅や相手に対する忖度や京都人の嫌みなどとして現れます。
逆にコンテクスト度が低い(ローコンテクスト)コミュニケーションは、公園の注意書きや法律など、誰が見ても同義に解釈する書き方とその理解です。


コミュニケーションは言語だけではなくコンテクストが重要で、そこにも様々な幅があるのです。
講師が言っていた例を書きます。
レストランのメニューに「サーモンの△△風□□焼き」とあったので若い女性店員に「これ、どういう料理なの?」と訊いたところ、「私、よく分かんないです」と答えられました。回答になっていませんね。でも、彼女は「訊かれた→自分では分からない→分からないと正直に答えた」つもりなのかもしれません。訊いた側は「分からないなら先輩などに訊いて教えてくれよ」と思っているのに。
そこで「厨房に行って訊いてきてよ」と伝えると、彼女は戻ってきて「サーモンと野菜を焼いたやつらしいです」と答えました。全然答えになっていない。質問者が何を訊きたかったのか、何を知りたかったのかを理解していません。


別の例。日本料理屋で出されたお味噌汁がしょっぱかった。そこで若い男性店員に「これ、いつもよりしょっぱくない?君、厨房に行って飲んでみてくれ」と伝えたところ、「いや、勤務中なんで」と言われたそうです。
「飲んでみてくれ」は「味を確認してくれ」という意味なのですが、彼にとっては「勤務中につまみ食いするなんてできない。だって僕は働いている最中だから」という意味で捉えました。


この例は「最近の若いもんは」というくくりになりそうですが、そうではないです。これは年齢も立場も違う全くの他人に対しハイコンテクストなものの言い方をしたこちら側が悪いのです。そういう状況で、しかも相手が文脈まで察してくれそうにない(そもそも文脈は相手と一定の相互理解があって、かつ前後の流れも分かっていて初めて理解が可能なものだ)のなら、こちらが相手に分かる言い方で伝えないとコミュニケーションは円滑に進まないのです。「伝わるだろう」「何で伝わらないんだ」という一方側だけの「当たり前」では伝わらないのです。伝わる言い方でようやく伝わるのです。


そうなのだ。コミュニケーションの齟齬のほとんどは「コンテクストの違い」なのだ
ほとんどの人はハイコンテクストで発信し、ローコンテクストで受信します。だから伝わらないし、間違って受け取ってしまいます。「相手に伝わらないかもしれない」「相手に伝えたい」のならローコンテクストを意識して発信しなければならず、「相手の言いたいことを汲み取ろう」「分かりたい」と思うならハイコンテクストを意識して受信しなければなりません。
みんな、それができていないから勘違い、誤解、諍いが起きるのです。


そもそもTwitterなんてそれぞれの「つぶやき」なわけで、他人からすると文脈を意識するのは難しいです。また、直接の知り合いでなくてもFF同士であればその人がどんな人なのか何となく分かってきます。そこには文脈が発生しますのでコンテクストを汲み取った受け取りができますが、FF外の人にとってはそれは難しいので、トンチンカンなリプが飛んでくるのでしょう。
これはTwitterでは仕組み上仕方ないことなので、今日もクソリプは生産されていくのです。


それでも、相手に伝えることを考えれば、コンテクストの違いを意識して会話するはずで、それができない上司はやはりダメです。


「弁当買ってきて→お茶も一緒に買ってくるのが当然だよな」はダメなのです。目の前の部下は連想ゲームをしているわけでも超能力を持っているわけでもありません。相手に理解できる言い方をするのが会話の作法です。「お茶も一緒に~」はコンテクストを共有できる仲になってから要求しましょう。
子供が母親に向かって言う「ママおんぶ」は「我は長時間歩いて足が疲れ、母親にも甘えたくなってきたし、うっすら眠たいのでおんぶしてほしい」という意味ですが、このハイコンテクストな一言を母親は理解して「でもママは荷物を持っているしもうすぐおうちだからもうちょっと頑張って歩こう」と言うのです。本心では「重たいから嫌だ」ですが、それをローコンテクストに変換してこのように言うのです。相手の言いたいことを理解し、相手に理解してもらうためにどう言うか。それがコミュニケーションです。


ローコンテクストを意識して書きましたが、伝わったでしょうか。もし伝わらないのであれば、それはあなたのコンテクストが低いわけではなく、単に私の文章能力が低いからだと思います。


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