やりやすいことから少しずつ

好きだと言えないくせして子供みたいに死ぬほど言ってもらいたがってる

柴那典「ヒットの崩壊」 感想(その4)

これでおしまい


自分でもびっくりですが、4回にわたるエントリになってしまいました。これで本当に終わります。
過去エントリ↓
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最終章「第六章:音楽の未来、ヒットの未来」について。
「音楽は『所有』から『アクセス』へ」。この事実は大きい。今の世界は完全にこの流れで、それはYouTubeで見るとかダウンロードで聴くとかではなく、ストリーミングという聴き方が主流で、その結果2015年の世界の音楽市場は1998年以来17年ぶりのプラス成長を果たした。「CDが売れない=音楽ビジネスは斜陽産業」ではないのだ。
しかし、日本はこの流れに完全に出遅れており、いまだにCDを始めとするパッケージ販売が全体の7割以上を占めている(世界全体ではパッケージ販売は4割弱)。本書は「邦楽の最新曲が網羅されていない」ことを理由に挙げる。英米では週間チャートの上位50曲が100%網羅されているのに対し、日本では43%だそうだ。


しかし、私はそうではないと思っている。私が思う理由はWi-fi等ストリーミングで聴く環境が整備されていないから」「レンタル産業がまだ元気だから」の二つだ。
これは完全に私個人の実感からの内容だが、「外で音楽を聴く」というのは車を運転しているときで、そのときにスマホを車のオーディオに接続することはない。一応iPhoneにつなげることはできるのでつなぐことはあるが、その際にストリーミングサービスを利用しようとは思わない。それはデータ通信量が気になるからだ。データ通信料を気にしていたら、優先順位は音楽ではなく動画やSNSだろう。そんな環境でストリーミングサービスが普及するとは思えない。
また、日本は世界で唯一といっていいくらい音楽レンタルが発達している国だ。TSUTAYAに行けば1枚200円程度でアルバムをレンタルできる。ストリーミングサービスの月額980円というのはとても安いと思うが、ひと月に5枚以上レンタルする人は果たしてどれだけいるだろうか。新しい音楽やまだ自分が知らない過去の音楽に対してこの金額を妥当と思う人はどれだけいるだろうか。
海外でストリーミングサービスが普及したのは、CDレンタルというビジネスがなく、CDショップ自体がもうほとんどないという現実から半ば強制的に普及したのではないだろうか。それしか音楽に触れる手段がないのだから。Wi-fi環境については知らないので誰か教えてください。


あと、日本のレコード会社のお偉いさんがいつまでも既得権益にしがみついているのもこの新しい流れが普及しない要因のひとつ。
今後ストリーミングが主流になるのはもう決定事項なのに、なぜそれに抗うのだろう。この流れの中で儲ける方法をなぜ考えないのだろう。下記で書いたように現在は「モンスターヘッド」の時代なんだから、メジャーレーベルの皆さんこそがチャンスなのに。
まだCCCDの時代から意識が変わっていない。自分たちの都合ばかりでリスナーのことを考えていない。水道の蛇口をひねるように音楽が聴けるなんて素晴らしい未来じゃん。それを「CDが売れなくなる」と捉えるからダメなんだよ。私たちが欲しいのはディスクではなく音楽なのだから。


アメリカではCDを発売しないミュージシャンがヒットチャートのトップに立っており、巨額の収入を得ている。この事実から「日本は遅れている」というのも違うと思う。単純にマーケットが違いすぎるからだ。英語圏というマーケットと日本語マーケットでは分母が違いすぎる。ストリーミングがいくら普及しようと、どれだけ再生回数が増えようと、分母が違いすぎでビジネスとして成立するとは思えない。


数年前、ネットの世界では「ロングテール」という言葉が流行した。ネットの普及により今までは商売にならなかったニッチな趣味嗜好がビジネスとして成立するという予言だ。
そして現在、その予言は半分当たり半分外れた。実際ネットの普及により小さな市場でも商売をするのは簡単になった。しかし、SNSの普及が「ロングテール」より「モンスターヘッド」を巨大にした。
「みんなが話題にしている」という強み。InstagramTwitterでは誰も知らない話題を出しても誰も見向きはしない。それよりもみんなが興味あることを話題にした方がいいねもリツイートも獲得できる。
その結果いま世界で起きているのは

ヒットが確実な作品に対して集中的にマーケティング費用を投下するようになった。この「ブロックバスター戦略」により一部の売れ筋に人気が集中するようになった

という「強いものがより強くなる」現象である。
realsound.jp
この記事中の「フランチャイズ作品と一部の特権的な立場にある監督が主導した作品以外の『普通の映画』が痩せ細りつつある海外の映画状況」というのも同じことを指摘している。
これは、地方在住の私にとっても困った状況である。見たいと思った作品でも超大作でなければ地方のシネコンでは上映されない。『この世界の片隅に』も『ドント・ブリーズ』も見ることができないのが地方の現実なのだ。


しかし、個人的には音楽についてはあまりこの危機感は抱いていない。CDは全国どこでも売っているしレンタルもできる。そしてストリーミングサービスもある。Twitterなどで自分の好みに合った情報は入手できる。なので、個人の生活はそんなに不自由しないと思っている。職場の同僚と会話が成立しないのは困るが、それは今に始まった話ではない。


では、音楽シーンにおいて「ヒット」は必要ないのか。いきものがかり水野良樹さんはこう語る。

「音楽好きの人たちだけで回っている世界」を出ないと意味がない。自分たちだけでは届かない人と繋がれるからこそ、曲を作る意味があると思うんです。(略)
たとえば、僕があるとき、お弁当屋さんで総菜を選んでいたら、たまたま店内で『ありがとう』が流れていて。それを聴いた若い夫婦が隣で会話していたんです。奥さんが「あ、これ『ゲゲゲの女房』の曲だわ。私、この曲、好きなの」って言って、旦那さんが鼻歌を歌ったりして。でも、もちろん僕には気付いていない。作った人が隣にいることなんて全然気付いていなくて。そのときに「あ、この曲、ヒットしたな」って思ったんですよ。(略)
僕としては、音楽に興味がないような人にまで届いたときに「ヒットした」と思いますね。

何だこりゃ、泣ける!
ここにヒットの定義がある。何枚売れたかではなく、興味ない人にまで届いたときが「ヒット」だと。


さらに水野さんは語る。

たとえば『ふるさと』っていう曲はみんな知っていますよね。(略)誰も経験していないのに、何か懐かしい感じがしてしまう。(略)
上を向いて歩こう』もそういう曲だと思います。(略)あの曲を通じて「上を向いて歩く」ということが、いつの間にかポジティブな行為として認識されている。もはや誰もそれを疑っていない。これって本当にすごいことだと思います。そういうことができてしまうのが「歌の可能性」だと思うんですよね。

何だこりゃ、泣ける!


現在、音楽をめぐる環境・手段・ビジネスは変革期を迎えている。著者はラストで

この本の冒頭には、「かつて、ヒット曲は時代を反映する『鏡』だった。果たして、今はどうだろうか?」と書いた。筆者の考えとしては、その答えは、今も昔も、そしてこの先の未来も常に「イエス」だと思っている。

と締めくくっている。きれいなラストだが、私は賛同しない。
上記の水野さんの話にある通り、「ヒット曲」はいつの時代も生まれる。それぞれの生活や思い出に寄り添う曲はこれからも生まれていくだろう。しかし、90年代までのように「その時代を代表する曲」は生まれにくくなるだろうと思っている。


音楽の力は大きいので、今の若い世代も音楽は聴く。ただしそれは「CDを聴く」という形ではない。手段は変わって、音楽は力を持ち続ける。その代わり、それは世間の真ん中に広まるものではない。個人それぞれのヒット曲が生まれるというのがこれからの「ヒット」の在り方だろう
それは寂しいことだけど、不可逆で仕方ないことだ。
上記の通り「強いものがより強くなる」のが現代だとしても、音楽は個人の中で育っていくものだから。


面白かったです。この本は、私がこれだけ長く書いていることで分かるように、とても個人的に興味のある内容で、それぞれについて賛成!反対!と意見を言いたくなる本でした。
映画では「応援上映」があるし舞台では「アフタートーク」があるように、本でも読んだ内容についてみんなで語り合う二次的な楽しみ方ができるといいのにな。誰か企画してください。それもエンタメの未来です。


ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)