偶然の出会いとキュレーター
駄作に関わっているヒマはない
昨日「テレビで映画を放送する意味はあるのか」というエントリの中で
ese.hatenablog.com
「テレビで映画を放送すれば偶然の出会いがある」ということを書きました。本日はそれについて考えていることを書きます。
私が子供の頃は、クソゲーがたくさんありました。情報がないので、名作かクソゲーかは買ってみないと分かりません。その結果クソゲーだったとしても、新しいソフトをすぐに買ってもらえるわけではないので、そのクソゲーをやり続けるしかありません。
そうなってくると、それはそれで愛着が湧くものです。あと、大人になってからの話のネタにもなります。クソゲーであっても元は取った。
CDも同じです。ジャケ買いやライナーノーツでの情報から買ったが、あまりよくないアルバムだった、ということはあります。当時は試聴もできませんでしたから(都会のタワレコならできたかもしれませんが、私の地元にそんな大規模なCDショップはありません)。
それでも、聴いているうちに良さが分かってくるものもあります。レッチリだってプリンスだって、最初は受け付けませんでした。それがしばらくするといきなりファンクのリズムが体に通っていったのです。
もちろん繰り返し聴いても合わない作品はありますが、今だったら第一印象でサヨナラしている作品の中にもスルメ味を持った作品は多いはずなので、いくつも名盤をスルーしている気がします。
それが今では食べログから口コミサイトからアマゾンレビューから個人のブログまで、あらゆるものがあらゆる方法で評価されています。私たちはそれを調べておけばクソゲーにも駄作にも出会わなくて済むのです。
いいことですよね。無駄な時間やお金は使いたくないもの。
しかしそれを「思いがけない出会いがなくなった」と残念がる意見も目にします。分かります。本をネットで買えばすぐ届くけど、書店に行けば思いがけない1冊に出会えるかもしれない。分かります。ネットで買えばお目当ての本はすぐ探せるけど、自分の好みの範囲から出ることがなくなった。分かります。でも、そうやって出会った作品が素晴らしいかどうかは分かりません。
自分が大人になり自由な時間が少なくなったからかもしれませんが、駄作やクソゲーにかかわっている暇はないのです。あとは、もう大人になって自分の好みを把握しているから、というのもあります。
でも、「思いがけない出会い」がないと自分の興味がどんどん狭まっていくのも理解します。
インターネットは何でも分かる、何でも調べられると思いがちですが、自分が調べたいこと、自分が興味あることしか調べないので、実は以前よりもその人の世界は狭くなっているかもしれません。それも分かる。かといって以前には戻れない。
なので、今の時代必要なのは「思いがけない出会い」だけど「ハズレではない」作品、ということになります。
それが上記のアマゾンレビュー等なのですが、これはあらゆる人が書いているので、自分個人にマッチしているとはいえません。ある人が絶賛している映画を見て自分は面白くないと思った、ということはあるし、その逆もあります。自分と感性が全く違う人の意見は何の参考にもなりません。
つまり、自分の好みを把握しているキュレーターやコンシェルジュという存在が求められるのですが、そんな人はいません。いたとしても私個人のために動いてはくれません。
そこで、自分でキュレーターになる存在を見つけることが必要です。ブログやTwitterなどで、自分の好みと近い人を探すのです。その人が「いい」と言うなら多分いいんだろう。その人が「ダメ」と言うなら駄作なのだろう。
もちろん完全マッチはしませんが、確率は上がります。そして自分の感想と合わなくても、感覚が近い人だとその違いの理由も納得できるものです。
本でも音楽でも映画でも、歴史はどんどん積み重なっており、名作だけでも膨大な量があります。その中で偶然の出会いに頼るのは効率が悪いと考えます。その膨大な名作の中で自分の好みの範疇から新たな出会いを得るには、やはり何かしらの指針が必要です。そのためのキュレーター。
映画でいうと、『この世界の片隅に』はTwitterでみんなが騒いでいるから見に行ったし、『チョコレート・ドーナツ』は知人が熱く勧めるので、『紙の月』は『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八監督だったので、レンタルしました。どれも普段の私だったら見ないタイプの作品ですが、どれもとても面白かったです。
ただし、これは大人の話。子供の頃は無差別にいろいろなジャンルに出会ってほしいです。親の押し付けではなく、自分の好みを発見するためには「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」も大事だからです。自分の趣味の鉱脈はどこにあるか分からないもの。
まだまだ見ていない・聴いていない・読んでいない名作はたくさんあります。範囲は広く、ハズレは少なく、名作に出会っていきたいです。
このブログは自分の備忘録が最大の目的ですが、それでも日記帳に書くのではなく他人の目に触れる場所で書いている以上、誰かのキュレーター的な存在になれたらいいな、というやらしい気持ちも持っています。
大槻ケンヂ『サブカルで食う』での宇多丸さんとの対談の中で宇多丸さんは
自分が上の世代から受けた薫陶感をちゃんとバトンタッチしなくちゃいけないっていう意識。
過去の知識の蓄積と継承っていうことを、それなりにリスペクトしているのがサブカルの人。
と語っています。ああー、そういう意識はサブカルのものなのかー。
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