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恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読んで思ったあれこれ

論ではなく、ツイートまとめ


恩田陸蜜蜂と遠雷』を読みました。
私は原作より先に映画を見まして、映画版は素晴らしかった!
ese.hatenablog.com
原作も読んでみたいなと思いつつ、文庫版上下巻というボリュームに尻込み。しかし、これをどうやって2時間にまとめたんだ!という興味と、皆さんの感想を見ていると「原作も(が・は)素晴らしい!」の声だらけで、そこまでいうなら読んでやろうと重い腰を上げて購入。


素晴らしかった!
直木賞本屋大賞のダブル受賞は伊達じゃない。素晴らしさと分かりやすさ、文章そのものの味わいとストーリーへの興味、音楽を文章で語るという無理難題と文章から聞こえてくる音楽、これらがきちんと両立していました。


で、これを読んで思ったことがいくつもあってTwitterで呟きまくりたいのですが、長くなりそうなのでこっちに書く。しかし、ブログで書くような一貫した論旨があるわけではなく、思いついたことをただ書き殴っていくだけなので、これはTwitterの連続ツイートだと思ってください。
本来はブログに書くにはそれらの思いつきをきちんとまとめ上げて書くのが筋なのでしょうが、面倒なのでしない。この勢いがなければこのまま書かないだけなので、その衝動を優先しよう。
という「構築しない言い訳」をして、始めよう。


●映画との比較
当たり前ですが、上下巻に渡る分量を2時間で語るなんて、不可能です。じゃあ映画も前編後編にすればいいのにと思っても原作者からは「1本でまとめて」という要望。何たる無茶ぶり。自分は上下巻で書いているのに!
そしたら、削ぎ落とすしかありません。どこを残してどこを削るか。結果、コンテストの予選はひとつ減り、他の出場者の描写は減り、亜夜の親友である奏は存在ごと削られました。
原作を読んじゃうとあそこ削ってほしくなかったなー、あの人いないのかー、と思ってしまいますが、2時間でまとめるにはちょうどよい取捨選択だったと思います。奏がいないことで亜夜の孤独・孤高ぶりが際立つし、群像劇としてのバランスも取れる。


そして、原作で事細かに描写していた演奏の素晴らしさと演者の個性を、それぞれ別のピアニストをボディダブルとして起用することで再現することに成功していました。ただし、ここは私がクラシックに対してまったく知識がないため、「そんな気がした」程度の感じ方ですが。
というわけで、映画への「変換」はとても上手かったと思いました。


もちろん映画の2時間では原作のすべてを語りきれないわけで、そこを原作のボリュームと詳細な描写がそれをカバーしていて(カバーというか、原作なのでこれが「全部」なのですが)、映画を先に見た私は両方のいいとこ取りを経験できてとてもよかったです。


原作ものの映像化はどちらを先に読む・見るべきか問題は、私の中では最近「映画→原作」という結論になりつつあります。だってどうしても原作全部を映像化できるわけではないので、映画の後に原作を読めば確認&補足ができてとてもいいじゃない。


●「音楽を書く」ということ
当たり前ですが、音楽は「聴く」もので「読む」ものではありません。聞こえない文章から音楽を聴かせるのはとても大変です。
マンガだと、聞こえないことをいいことにライブで盛り上がっている光景だけ書くとか弾き語りで聴かせて感動させるとか、「見て分かる表現」で逃げることができますが、小説ではそれはできない。ライブが盛り上がっているなら、どう盛り上がっているのか、なぜ盛り上がっているのかを書かなければならない。その弾き語りがなぜ素晴らしいのかを書かなければならない。小説は、書かなければ始まらない、書いてあることがすべて(でありつつ、そこから読者は想像の翼を広げるわけですが)という表現形式です。それを成し遂げたこの作品は、本当にすごい。


●小説家のすごさ
当たり前ですが、小説家は文章が上手い。語彙や表現方法が、本当に巧み。私は最近小説をあまり読まなくなり、新書などが多くなっているので、たまに小説を読むと「小説家ってすげえ」と毎回感心してしまいます。
私が感じているけど言語化できないこの感情はこういうことか!この心の機微はそういう変遷を経ているのか!ありふれた出来事に見えることも、豊かな感受性と語彙と表現力があるとこう表現されるのか!
何でも「ヤバい」「神」「尊い」「クソ」で済ませちゃダメ。そこには幾重にも重なりつつ異なる微細な「差異」があり、そのコンマ数ミリの違いをそれに合った語彙と表現で言葉にするのが小説家です。


私たちは日本語の読み書きができるので、小説って誰でも書けそうじゃない?と思いがちですが、違うんです。「文章を書く」と「素晴らしい文章を書く」にはものすごく大きな隔たりがあるのです。
そういうことを、素晴らしい小説を読むたびに感じます。本作では素晴らしい演奏の数々を、これだけの表現方法を駆使して描いていました。音楽は分からなくても、音楽は聞こえなくても、この演奏の素晴らしさは分かる。小説家って、すごい。


●「演奏の違い」とは
当たり前ですが、クラシックのコンテストは演奏者の技術・解釈を審査し、順位をつけるものです。私はクラシックそのものをまったく知らないし、上手いピアニストの中でさらに順位をつけるなんて自分とは完全に縁遠い世界だなと思っていたのですが、自分の知っている世界で考えたらそうでもないな、と思うようになりました。


ロックやポップスでも、同じ曲をカバーすることはよくありますね。そうすると、オリジナルの方がいい・オリジナルよりいい・このアレンジは極端だけど自分は好き、などいろいろ感じることはあります。単純に歌唱力や演奏力の上手い下手の違いもありますが、「この曲にこのビートが合うとは!」みたいな解釈による違いもあります。
まあ、ロック・ポップスはアレンジで違いを出すことができるので「解釈の表明」は比較的簡単ですが、クラシックは基本譜面通りに弾いて、その中で独自性を出さなきゃいけないんですよね。うーむ、やっぱり大変。


ただ、同じ曲を同じ人が同じアレンジで弾いても、違いは出ます。セルフカバーとか、毎回のライブとか。それを思えば、確かに同じ曲を同じ譜面で弾いても、違いが出ることは分かります。バンドメンバーの怪我などで急遽サポートメンバーが入ると、同じ譜面なのに全然違う演奏になることありますもんね。
例えばこういうこと。
ese.hatenablog.com
『クロスロード』だって『愛しのレイラ』だって『天国への階段』だって、弾く人が違えば違ってくる。クラプトンやジミー・ペイジだけが正解じゃない。
という風に考えれば、クラシックのコンテストも楽しめそう。そのための事前知識はたくさん必要ですが。


以上です。やはりもっと小説を読んで、文章そのものの素晴らしさを味わうようにしないと、自分が書く文章も痩せてくる。人間は、特別な天才以外はインプット以上のアウトプットはなかなか生み出せない。ならば素晴らしいインプットを少しでも多く摂取しよう。小説は素晴らしい。素晴らしい小説は、とっても素晴らしい。


蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

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蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

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『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集[完全盤]

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蜜蜂と遠雷 音楽集

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